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霊、霊、書く

「入っていいですか?」
「いいですよ」
 男が云う。
 僕は小さな声でお邪魔します、と呟いて、靴を脱ぐ。ひた、と、冷たい感触が靴下越しに伝わってくる。両隣をアパートに挟まれているせいか、家のなかは人工的なまでに薄暗かった。今どき珍しい平屋というのもあって、なんだろう、ここだけ死んだ場所みたいな、そんな感覚を覚える。
 すぐ近くにある谷中霊園の気配が、そんな雰囲気を助長させているのかもしれない。ちょっとしたホラーだと思った。
 こっちです、と通されたのは、ちいさなちゃぶ台とテレビ、それと加湿器が置かれているだけの、ひどく殺風景な部屋だった。漫画を描く道具などは一切見当たらない。仕事部屋は別にあるのかもしれない。
「すいません、ここ最近はあまり掃除もできてなくて、汚いです」
 男が、心底申し訳なさそうな様子で云う。
「あ、いや、全然。やっぱり、週刊連載は忙しいですか」
「そうですね。想像を絶する忙しさ……でした」
「ごめんなさい。そんなところに、突然お邪魔しちゃって」
「いや、お願いしたのは私ですから。それに、もう、最終回まで描き終わりましたので」
 と云う男の表情が読めない。薄暗い部屋のなか、男の真っ白な、無表情な顔面が浮かびあがり、まるで幽霊と対峙しているような気分にさせられる。
「え、終わっちゃうんですか」
「はい。まあ、人気もなかったですから」
 たしかに。特にここ数話は、物語の展開を急くあまり細部を詰めることを怠り、説明をパッションだけでごまかそうとした結果、インターネットでおもちゃにされるような、そんな、ひどい出来栄えだった。
 そうか、終わるのか。
「それは、なんと云ってよいか……」
「あ、いえ、仕方ないんです。誰もが楽しめる、そんな漫画を描けなかった僕の責任です」
 そうだ、お茶出しますね、と呟いて、男は奥へと消えていく。
 終わる。
 『タイムパラドクスゴーストライター』が。
 それは、僕がここに来た目的の半分以上をすでに失っていることを意味した。

 ゴーストライターの人からTwitterでDMが来たのは先週のことだった。
<私と友達になりたいというツイート、拝見しました。恐縮です。長らく友人、というものがいないため、嬉しいような、恥ずかしいような、こそばゆいような、そんな心持ちです>
 確かに僕はことあるごとにTwitterで<ゴーストライターの人と友達になりたい>だの<ゴーストライターの人と飲みにいきたい>だのつぶやいてはいたが、しかし、それはある種の冗談だった。だから、まさか、ここまで真っ直ぐな反応が返ってくると思ってもいなかった僕はわかりやすく狼狽した。
 しかし、誠実な人間には誠実に向き合う、をモットーに生きる僕ではあったので、ゴーストライターの人のDMにも真摯に返事をした。
<こちらこそ、お返事ありがとうございます。まさか、作者の方から反応があるとは思ってもいなかったので、とても嬉しいです。まだ何者でもない、しょうもない一個人ではありますが、末長く仲良くしていただけると幸いです。よろしくお願い致します>
 それから、ゴーストライターの人と何度かやりとりをするうちに、僕がブログをやっていることが話題にあがり、それで、なぜか僕のブログでゴーストライターの人のインタビュー記事を書くことに決まっていた。
 日曜日だった。僕はゴーストライターの人の家へ招かれた。
「すいません、インスタントのお茶しかなくて」
「いや、全然、お構いなく」
 ゴーストライターの人は肩を縮こませお茶を飲んでいる。
 極めて生真面目な人間、というのがゴーストライターの人の第一印象だった。ヨレた薄紅色のシャツ、経年変化、というよりは劣化しただけのジーンズという服装から、ファッションに無頓着な人間であることが伺える。人付き合い自体が苦手なのか、視線が安定しない。自分の家に、自分じゃない人間がいることが落ち着かなくて仕方ないといった様子だ。
「しかし、随分立派な家ですね。僕はてっきり平凡なアパートを想像していたので」
 漫画に登場する主人公の部屋も、たしか平凡なアパートの一室だったはずだ。あれはてっきり作者の投影だと思っていたので、はじめに駅からこの家の前まで案内されたとき、僕は少々面食らってしまった。
「親族が持っている物件を、ほとんどタダみたいな価格で貸してもらっているだけです。陽当たりも悪いですし、あまりいいものじゃないです」
「はぁ」
 案外、裕福な家庭の生まれなのかもしれない。まあ、でなければ、こんな歳まで漫画家だなんだとは云ってられないか、と思った。もちろん、家庭環境に恵まれていることが、漫画家として必ずしもプラスであるとは限らないが。
「えっと、それじゃ、一応、インタビューということで、会話を録音させてもらおうと思うんですが、大丈夫ですか?」
 スマートフォンをわかりやすくかかげる。もちろんです、とゴーストライターの人は頷いた。
「なんだか、緊張しますね。こういうの、初めてです。よろしくお願いします」
 と、ゴーストライターの人が照れ臭そうに笑った。あまりにもぎこちない笑顔に、見ているこっちまで笑ってしまいそうだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。えっと、では、まず、軽く生い立ちから、いいですか?」
「は、はい。えっと、どこから話せばいいのかな」
「じゃあ、まずはご出身から」
「生まれは、石川の……片田舎です。全ての地方都市がそうであるように、その、何もないような街でした。シャッターばかりが目立つ商店街、どこかで煙立つ田園風景、色がなく墓地のような団地、そびえ立つ灰色のショッピングモール、そんなものが原風景です」
「僕も地方出身なので、とてもわかります。目に浮かぶようです」
「あ、そうなんですね。ちなみに、どちらに?」
「青森です」
「それはまた随分と、北から」
「日本の最北端じゃないのがポイントです。中途半端なんですよ」
「なるほど……」
 ゴーストライターの人が深々と頷く。
「いや、すいません、僕の話はどうでもよくて……。それじゃ、漫画を読み始めたのはいつから?」
 ゴーストライターの人はそうですね、と少し考えて、それから、
「たぶん、小学生の頃から、それこそ、低学年のときから、漫画は読んでいたと思います」
「具体的に聞いてもいいですか?」
「はい。えーと、少し歳の離れた兄がいて、兄の漫画を読んでいました。やっぱり、少年マンガが多かったです。『NARUTO』や『ワンピース』。あと、古いところだと『ジョジョ』や『ドラゴンボール』なんかも読んでいました」
「随分と恵まれた環境ですね」
「そうですね……はい。恵まれていたと思います。漫画はとても身近な存在でした」
 ゴーストライターの人は、どこか懐かしむような、熱に浮かされたような瞳で語る。僕はお茶を一口飲んでから、
「自身で漫画を描き始めたのは、いつ頃からですか?」
 と訊いた。
「それも、たぶん、小学生の頃だったと思います。母親が昔、美術系の学校に通っていて、だから、家にスクリーントーンがあって。それを勝手に使って、怒られたことを覚えています」
「どのような漫画を?」
「たしか、ギャグマンガ、かな。小学生ってなぜかギャグマンガを描きたがるんですよね。まわりの同業者も、はじめに描いたマンガはギャグって人が多いです」
「なるほど。それじゃ、かなり早い段階から漫画家を意識されていたんですね」
「いや、あの当時は漫画を描くのが楽しいってだけで……。漫画家になりたいと強く意識するようになったのは、高校生のころですね」
「それは、どのような経緯で?」
「ある漫画に出会ったからです。その漫画を読んだとき、私は全てを理解しました。漫画とは何か?なぜ、人は漫画を描くのか?なぜ、人は漫画を読むのか?なぜ、それは漫画でなくてはならないのか?なぜ、漫画は物語るのか?そういうことを。全てです。たった一つの漫画が、私に全てを教えてくれました。気づかせてくれました」
「それが、漫画を描く原動力に?」
「そうです。その体験は、私を無邪気に信じさせてしまうには、十分すぎる効力を持っていました。私は確信したんです。自分は漫画家になるべくして生まれてきたのだ、と」
「なるほど」
 強烈な既視感にくらくらする。
 恐ろしいほど似通っている、と思った。
「ちなみに、その漫画の題名を伺っても?」
「いや、すいません、それは。ただ、誰でも知っているような、有名な作品です。その歳まで未読であったことが、恥ずかしくなるくらいの」
「はぁ」
 これ以上この話題を掘っても何も出ないと判断した僕は、質問の方向性を変えることにした。
「どのような少年時代でしたか?」
「そうですね……良く云えば、手のかからない、素直でいい子。悪く云えば、個性のない、平凡な子供でした」
「教室では、やはり漫画の話を?」
「いや、まったく。なんというか、私のなかで漫画をコミュニケーションの道具にしたくない、という強い思いがあって。友達がいなかった、というわけではないんですが、誰かと漫画の話をすることはありませんでした」
「では、どのような話を?」
「うーん、小中とサッカー部に入っていたので、サッカーのことや、あとは、くだらない、テレビで何を見たとか、隣のクラスの誰がどうのとか、そんな話ばかりです。そんな会話をしながら、頭のなかでは常に漫画のことを考えているような、そんな生活でした」
「なるほど」
「でも、今は少し後悔しています。なんであの時、もう少し人生経験を積んでおかなかったんだろう、と。当時は、わかっていなかったんです。そういう、平凡な生活こそ漫画を描くうえで大事だってことを」
「漫画に、作者の実体験は必須だと思いますか」
「必ずしも実体験である必要はないと思っています。しかし、ある種の普遍性は普遍的な生活を送る人間にしか描けないと感じています」
「なるほど」
 ふぅ、と息をつくと、少し休みますか、と提案された。相手の吐き出す情報を頭のなかで整理し、質問を投げ返すという、極めて不慣れな作業にいささかの疲労を感じていた僕は即座に承諾した。

 少しタバコいいですか、と断って庭へ出ると、ゴーストライターの人が空き缶を持ってきてくれた。
「使ってください」
「ありがとうございます」
 外は曇り空で、湿気があって、そのうえ夏だった。肌がジメジメして不快だった。メンソールの煙を吸い込んだところで、ちっとも爽快な気分にはなれなかった。『タイムパラドクスゴーストライター』が終わることを考えていた。漫画が終わったところで、きっと、誰も悲しまないだろう。きっと、誰も本気で心配などしないだろう。終わって当然。連載できただけで奇跡。誰もがそんなふうに思っているのだろう。才能、という便利な言葉で、ゴーストライターの人の苦悩や努力や思想は片付けられてしまうのだろう。才能が……枯れた、と、それだけで『タイムパラドクスゴーストライター』が終わる理由になってしまうのだろう。
 終わる。
「あと、何話で終わるんですか」
「はい?」
「漫画」
「ああ。あと三話です」
 三話。三週間のうちに終わる。一ヶ月もないのか。絶望的だな、と思った。
 ゴーストライターの人は庭に生えた紫陽花を指で千切り、それから、
「あの、」
 と声をあげた。
「はい」
「私の漫画、率直に云って、その、面白いですか?」
「えっと、」
「正直に、お願いします」
 ゴーストライターの人の目は真剣だった。真剣に評価を切望していた。真剣に自分の立ち位置を測りたがっていた。自分はまだやれるのか?自分はもう終わってしまうのか?自分はここまでなのか?おそらく世間一般の人間は一生縁がないであろう欲望を、ゴーストライターの人は有していた。誰も何も教えてくれなくて、誰も何もやってくれなくて、誰も何も返してくれなかった人間だけがたどり着く、圧倒的な虚空。そこは暗い。そして寒い。
 夏なのに。
 雨が降ってきた。
「正直云って、全く面白くないです」
 ゴーストライターの人は、すこしの間、呆然として、それから、でも、きちんと評価が返ってきたことが嬉しくて堪らないかのように、笑って、それははじめにゴーストライターの人が見せた、あのぎこちない笑顔ではない、本当の笑みだと、僕は思った。文末にわざわざ(笑)なんてつけなくても、伝わるべきところにきちんと伝わる笑顔だと思った。
「雨、降ってきましたね」
 ゴーストライターの人が空を見上げ、呟く。
「入っていいですか?」
 僕は訊く。
「もちろんです」
 ゴーストライターの人が応える。いつのまにかその顔面から笑みは消えている。
 タバコの火を消し、僕たちはインタビューの続きをはじめる。

「今、書かれている漫画について訊いてもいいですか」
 暗い、本当に暗い。太陽なんてどこにも存在しないんじゃないかと勘違いしてしまいそうな、どうしようもない部屋のなかで僕たちは改めて向かい合う。
「はい、お願いします」
 と答えるゴーストライターの人の表情に、熱が灯るのを感じる。
「まず、未来のジャンプが送られてくる、というアイデアはどのように生まれたのでしょうか」
「それは……まさしく、私があの主人公と同様の境遇に置かれたためです。何を描いてもダメで、何を描いても否定され、何を描いても失格を突きつけられる。疲れてしまって、本当に、未来のジャンプに載っている漫画でもパクってやりたい、と、毎日強く願っていました。そんな日々を送るうちに、ふと、このネタがそのまま漫画になるんじゃないか、と天啓を受けたんです」
「なるほど。ある意味、あの一話は実体験であるわけですね」
「そうですね。はい。もちろん、本当に未来のジャンプが送られてくる、なんてことはありませんでしたが、一話の内容はほとんどが実体験に基づいています」
「では、二話以降で、何か意識されていることはありますか?」
「自分を薄めることを意識しています。一話で自分のことを語りすぎてしまった、という反省がありまして……。それは僕が考える『究極の漫画』に反するものです。だから、なるべく自分から距離をとろうと」
「最新話でヒロインが語っていた、究極の漫画の条件ですね?」
「そうです。漫画を読んでいて、作者の顔が見えることがあります。もちろん、決して悪いことではないです。ただ、それは同時に読者を選別することになってしまうと思うんです。ディズニーが良い例です。ディズニーと聞いて、例えばミッキーやドナルドというキャラクターを思い浮かべる人はいますが、ウォルトディズニーの顔を浮かべる人はいません。だから、ディズニー作品は全世界で受け入れられている、と思うんです。究極のエンターテインメントに作家性は必要ない、と信じています」
「ゴーストライター、という着想は、そのような思想から来ているんでしょうか」
「はい。究極の漫画が描けるのなら、私は幽霊で構わない」
 ゴーストライターの人が断言する。
 美しく、断言する。
 完璧に、断言する。
 絶対と、断言する。
「なるほど。ちなみに、次回作の構想はもう出来ているんでしょうか」
「いや、お恥ずかしながら、まったく。ただ、漫画は描き続けると思います。まだ、終わりじゃない。まだ、全然何も描ききれていない。多分、僕には穴が空いているんです。それは、例えば友人が出来たり恋人が出来たり家庭が出来たりしたところで埋まるものではない。就職したり車を買ったり立派な家に住んだところで埋まるものでもない。漫画を描くことでしか、この穴は埋められない。満たされない。私には漫画が必要なんです。だから、辞めることはありません。ずっと。死ぬまで」
 ゴーストライターの人の瞳は美しい。
「今日はありがとうございました」

 帰りの電車でゴーストライターの人のインタビューを聞き返す。電子化された僕の声はなんだか自分の声じゃないみたいで、どこか余所余所しい。他人行儀な誰かが、全然知らない誰かの話を聞いていた。
 くだらない、と思った。
 スマートフォンから音声ファイルを削除する。あのインタビュー内容が活字化され、世間に広まる未来は永遠に失われる。
 ざまあみろ、と思う、僕は。
 人のことを知れば知るほど嫌いになる。
 全てを語り終えた人間には、もはや一ミリの価値もないのだということをしっかりと認識する。
 『タイムパラドクスゴーストライター』の敗因はハッキリしている。ゴーストライターの人は一話で語りたいことを全て語ってしまったのだ。自分の全てを吐き出し尽くしてしまったのだ。だから、それ以降、何も語ることがなくなったゴーストライターの人は情熱を失い、祈りを失い、物語を失い、失速するしかなかったのだ。無個性であることが究極の漫画の条件だと?笑わせるな。それは誤魔化しだ。それは欺瞞だ。それは嘘だ。嘘を書いた瞬間、物語は本当の意味で死ぬ。ゴーストライターの人はもう、とっくの昔に死んでいたのだ。
 僕自身がそうであったように。
 本当は今日、僕はゴーストライターの人を殺すつもりでいた。全てを理解してもらおうとする人間は下品で醜い。存在自体が不愉快だった。この世界にただ存在するという事実だけで公害だと思った。最低最悪のゴミカス人間だと思った。生かしておきたくなどなかった。ただ、幸いなことにゴーストライターの人は僕が手をかけるまでもなく、もうすでに終わっていた。
 奇跡は二度も起きない。
 それでも、きっと、ゴーストライターの人は漫画を描くのだろう。無様に。汚らわしく。惨めに。馬鹿にされながら。後ろ指をさされながら。一人。孤独に。あの、陽の当たらない死んだ場所で。
 どうでもいい。
 好きにやってろ、と思った。
 電車は勝手に進む。途中で乗り換えないと、僕は自分の家に帰れない。

いとうくんのお洋服代になります。