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ep4 東日本大震災

               〜震災で芽生えた「自分が強くあること」

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周りの世界が変わった「3.11」

みお七ヶ浜で働くことはとても楽しかった。

もちろん収入においては、とびっきり贅沢はできなくても、自分の欲しいもの、食べたいもの、いきたいところにはいくことができて、それなりに満足して過ごすことができていた。

たぶん私は、この出来事が起こらなければ疑問を持つことがなく、みお七ヶ浜で働いていたと思う。

でも、忘れられないあの日が起きた。 

震災時のことを思い出すと、苦しさと悲しみしか思い出せない。

私自身も海沿いに住んでいたために、周りの人が多く亡くなり、今まで見ていた町並みも変わってしまった。

水道が止まってしまったために「食品製造」ができなかった。

つまり仕事がない状態を味わうことになった。

私はあの時、ある意味「分けられた世界」にいたのかもしれなかった

仕事のない状態というものは、本当に辛いものだった。

まず、経済的な不安に少なからず陥った。

障害者施設の給料は、時給で換算される。

ということは、仕事が止まると言うことがどういうことか分かってくる。

加えて、日常を失うとぽっかりと穴があくものである。

震災で自分の家の片付けが終えると私には、失意と不安しか生まれてこなかった。

もちろん障害者施設を経営する立場の方から言わせれば仕方のないことで、今でも、正しい決定だったと思っている。

しかし、私自身がそれをゴクリと飲み込めなかった。

私はいつも、「分けられた世界」を気にしていたんだろう

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アフター3.11

震災後の私の周りは、大きく変化していった。

同じ職場に津波で家を失った方がおられ、自分と比較して我慢していく日々だった。

再び仕事ができることは、本当に嬉しかった。

命があると言うことが、これほど、大切なことであると言うことを噛みしめていた。

「命」や「生きる」という言葉を意識しはじめたのは、この頃かもしれない

ちょうど、震災から3年前にまだ若くし、父を亡くした。

加えて、妹も嫁に出たため、母と二人で生きていくことを考えるようになった。

自分にとって頼れる人が、もういない。

そう考えると、自分にできること一生懸命にして行かないと思うようになった。

自分から動かなくてはと思い、いろんな事をいさせていただいた。

自分で福祉会の会報に寄稿をしたり、連載の企画を組んでいただいたりもした。

「お祭り」と言われる、いろんなイベントで自分のブースを持ち、責任のある仕方で関わらせていただりもした。

もちろん関わらさせていただいたことはすべて楽しかった。

充実していたと思っている。

そして、関わらせていただいた人すべてに感謝している。

しかし次のことを分かってしまった。

自分が頑張ってみてもの自分や周りがよい方向により進むと言うことはないと言う現実を感じ取ってしまった。

こういうことを述べることは、贅沢で生意気なことなのかもしれない

でも自分は、いくら頑張っても「分けられた世界」にある程度、いなきゃいけないのかと自問自答しざる得なかった。

それが嫌で自分ができること、あらゆる事にチャレンジしてきたが結局何も変わらなかった。

自分は何もできないものだと実感した。

震災が落ち着いたときに考えたこと

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自分は無力だった。正直疲れ果てた。

少し自分を休めて、旅行に出掛けた。

ふらっと、目的地に向かって一人で行きたいところに行ってみた

そして自分は次のことを深く考えるようになった。

「働くとはなんだろう」「雇用ってなんだろう」

非雇用型B型の施設で働くことは、楽しかったけど、安定はできないときがあることが分かってしまった。

自分はこれから生きていく上でこのままで本当にいいのだろうかと真剣に考えた。

その時に浮かんだ答えが、今いるところを卒業し、もう一歩外に出てみようと思った。

やはり、もう少し「分けられた世界」から出てみたい。

その気持ちがより一層に強くなった。

そのためには、本当に自分が強くなければと思ったのだが、この時の自分の気持ちはまだまだ甘かったと思っている。

ep5に続く

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