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「意識高い系」こそが古い価値観に囚われている人なのだと思う

「意識が高い人と『意識高い系』は違う。」そんな言葉さえも様式美となった昨今。意識高い系という言葉のニュアンスが漠然とでも浸透しているものとしてこの記事を書く。周りから痛いと思われても愛すべき彼らについて。

僕自身も学生の頃は意識高い系だった。思い出したくもない過去だ。「世界を変えたい」とか「成長して影響力を持ちたい」とか一丁前に語りながら、世の中のことも知らなければ、何かを実行できるようなスキルもなかった。

意識高い系の典型的な言動はこうだ。「これからは個人の時代になる。安定を求めることがリスクなのだ。」間違ったことは言っていない。むしろそんなことは皆が理解した上で自分の価値観に基づいて生き方を選択している。

移り行く世の中で多くの人が変化に対応しながら生きているのだが、無知な人はそれに気づかずに過ごし、ある日自己啓発本やお気に入りのインフルエンサーの言葉を聞いてハッとする。「これはものすごいことを知った」と。

それと同時に、「自分以外の人はまだこの現実に気づいていない。世間の人は古い価値観に囚われている。」と思考を巡らせる。それをベースに論理展開するので世間とのギャップが生まれる。意識高い系マウントの始まりだ。

世間の人がとっくに理解していることを得意げに語る。古い価値観に囚われていたのは彼ら自身なのだ。そこに「夢は言葉にしろ」・「見る前に飛べ」など定番の言葉を自己啓発本から吸収すれば立派な意識高い系が完成する。

しかし、若いときは皆自分が思っている以上に無知なので、自己啓発本に影響されるのはある種健全なのだ。本当に優秀な人はその言葉に能力が伴い、世間からは「意識が高い人」と評価され、あまり痛い存在とは見られない。

意識高い系の根底には世間の価値観への認識のギャップがあり、自分は周りより優れていると錯覚する。しかし、その思いと自身の能力との間にギャップがあることも理解していて、まるで宗教のように「成長」と唱えるのだ。

世間の価値観への認識のギャップ、自身の思いとスキルとのギャップ、この二つをもって「意識高い系」とするのが今のところの僕の考えだ。学生や若手社員が「意識高い系」であることは、むしろ可愛げがあって良いと思う。

ただ、それが若者と呼ばれる人ではなく、ある程度仕事もしてきたような人ならば、それはいつまでも無知でいつまでもスキルの伴わない人だと考えられるので、世間から痛い存在という評価を受けるのは仕方ないことだろう。

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