ギャンブルにはまらないゲーマー

私はゲーマーだ。タイトルの通り、ギャンブルには全くと言って興味がない。それどころか、若干の嫌悪感もある。その根拠は、『ギャンブルをするとゲームの楽しさが消える』からだ。と断言する。別にどこかに攻撃的でも、保守的でもない。ただ、人間とはそうできている、と私が思っているだけの話――と、今回は少し最初から大きく出てみよう。もちろん私の創作スタンス上、どちらも否定はしない。まったくもって。

早速啖呵を切ったものの、第一話はまずその前提をのんびり聞いてほしい。そもそも、ギャンブルもゲームも人によって大きく捉え方が違いすぎる。ギャンブルを歴史や商業価値として大きく捉える人もいれば、競馬やパチンコだけを連想する人もいる。ゲームだって、テレビゲームと言ってもRPGと格闘ゲームは大きく違うし、最新のスプラトゥーンしか知らない子もいれば、往年のディアボロが真っ先に浮かぶ人もいる。或いは私個人で言えばTRPGに遡る人を思い浮かべたり、往年のボードゲームこそ至上と語ったり、全ゲームシーンを総括して捉える人の顔まで思い浮かぶ。個々の単語でこそこれなのだから、まずは大本のギャンブルとゲーム自体を話そう。

なので一応の定義として『ギャンブルとは、勝敗を決められる物事に対して配当が生じ、金銭・あるいは相応の価値を担保して参加できるもの』とし、『ゲームとは、一定の規則で規定された道具を使って、優劣を客観化して勝敗を決められる』と、この小さな紙面の中で一応の定義をさせて欲しい。

まず『ギャンブル』として場を立たせる為には、『金銭価値に相応するものの存在』が欠かせない。私にとって、それはあまりにも『ゲーム』に邪魔な存在だ。私にとってのゲームが、『一定の規則内で規定された道具を使って、優劣を客観化して勝敗を決められるもの』である以上、ゲームに参加する者は、スタートに平等さを求めているためだ。なので、その時点でギャンブルは忌避される事態で、『私が楽しんでいるゲームの定義』と対抗を始める。

私が楽しんでいるゲームと言うのは、定義を守った結果生じるものだ。同じ規則内で、同じ道具を使っているにも関わらず、参加者の関係性と選択で変化するその展開、そしてその選択肢に伴う自分自身の判断こそが、ゲームの楽しさの一つとして挙げられる。麻雀などは好例かもしれない。

さて、ゲームの楽しさの一つとして、どうしても『確率』を挙げなくてはならない。ゲームにおいて『確率』とは、自分が獲得する道具にランダム性が生じる場面において、どの可能性が高いか、低いかを考えるために扱う数値だ。麻雀においてはその連続で、自分が引く配が欲しい奴か欲しくない奴か。自分はどれが要らないのか。そしてまた捨てる配は相手にも影響し、相手の捨てる配も直接的に自分に影響する。それらの要不要を導き出す為に、自分の手配、場の捨て配、ドラ配など多くの情報を穴埋めしながら、自分が欲しい配を手にする『可能性』を手繰り寄せる。その可能性に賭ける。この可能性を吟味して、自分で判断すると言う点こそが、ゲームの楽しさの一つだと言える。そしてその背景には『可能性に賭ける根拠が、結局の所自分が納得する勝利への一手』でしかない所にある。この可能性に賭けた時に、自分が納得する快感。これが私が敬愛するゲームの楽しさの一つである。どんな背景や価値なども付随せず、同じ盤面で、お互いの判断で客観的に正しい勝敗が決するのがゲームの良さだと、私は胸を張って言う。

だが、ギャンブルはその選択の快感に金銭的価値を付随させる。そして、人間はその金銭的価値、いわば『餌』を目の前に出されると、『餌』を獲得した快感だと錯覚してしまうのだ。自分の選択した快感が、『餌』を獲得した喜びに上書きされてしまう。それがその賭けでしか獲得できない一点物が配当になっているならばいざ知らず、ゲームで得た快感は、金銭の喜びだけになる。これが、あまりにもギャンブルとゲームが扱っているものの溝となる。

もはや明らかだが、以下二点がまとめになる。

一つは、本来、お金を稼ぐだけであれば、商いをし、働けば良い。むしろ仕事をした方が手っ取り早く稼げるし、健全だし、方法も多様だ。それは誰もが知っている。餌を自由に獲得できる快感は、『確率』で『偶然たぐりよせた』比ではない。故に、ゲームを介する時間が無駄である。稼いだ金の余暇で、ゲームはするものだ。

二つに、それでもギャンブルをするのであれば、平等にこだわる必要などない。配当を得ることを目指すのだから、少しでも自分に有利にルールを解釈すべきとなるからだ。ギャンブルを題材にする漫画や小説などで、イカサマが横行するのは当たり前である。平等を守る必要がなくなるのだから。選択の快感など二の次三の次である。存在しないのだから。勝つこと、餌を獲得することこそが全ての指標になる。つまり、その稼いだ金の余暇で、ゲームをはするものだ。

この二点から、私はギャンブルとゲームの溝があると思っている。
・ギャンブルとゲームで得られる物のミスマッチ
・ゲームを定義たらしめる物とギャンブルの目的のミスマッチ
この二点で、ゲーマーはギャンブルにはまらない。

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