『書を捨てよ、町へ出よう』と向き合う。

寺山修司の著書。かつ劇作家の彼の評論のタイトルだ。私は初めてこのタイトルを見たとき、前向きなタイトルだと感じた。著書の破天荒ぶりを感じた。なるほどカリスマだったのだな、と感じる勢いを感じた。そこが嫌いだったり、妙な魅力に感じたりする人がいると感じた。
当然、このタイトルは『書に耽溺した人』に向けて書かれている内容が多い。空想や妄想に浸ってないで、実体験を求めた方が良いだろう――と最後に締められるのは主題の通りだ。

私もこのタイトルにおおむね同意だ。ただ、このタイトルを思い出す時、私のスタンスを見返らないといけなくなる。それは『弱った人に寄り添う優しさ』を大事にすると言うスタンスだ。その立場から『書を捨てよ――』と簡単には言えない。その為に、今日はこの文章を書く。

とはいえ、寺山修司も簡単に言ったつもりはないだろう。空想や妄想に救われている人は、そこに救われるだけの理由をもっている。癒されている。そして大抵、その救われない理由が町にあるからだ。

誰だって、現実を100%順風満帆に生きているのは難しい。踏ん張ったり、頑張ったり、悩んだり、立ち止まったりする時、誰かが刻んだ魂の言葉(=書)が、欲しかった言葉や思想を留めていることは多い。書とはそういうものだ。教科書だって、学力を刻む為に一番役に立ってくれる指標だ。世にトンデモと言われる宗教本だって、『町』に裏切られた人にとっては救いの象徴だ。どんな書だって、書になっただけの理由をもって産まれている。と私は考えている。

だから、救われる書に出会ってから、後の話をしたい。書は人を救ったり、癒したり、励ましたり、知恵を授けたりする。『読者とは全然違う世界にいる』からだ。世界は広く、社会は無数に存在するからだ。今いる『町』に殺されかけた人間は、書を媒介に他の『町』を知り、自分のいきたかった世界を見つけることができる。そして、そこにいくための道標となるのが書である。

人はその読んだ書の世界に入れる訳ではない。行くのだ。読んだ先の時間軸で人生を生きる。読んだ内容を活かすも殺すも本人次第。だから、書は捨てられて――否、本棚に戻して、新しい『町』へ出ていくことを推奨される。言葉やそこに込められた知識だけで、すぐに人間は生きていくことはできないからだ。救われて、癒されて、新しい『町』へ行くために次に行くのだ。

その救いを、癒しを、知恵を受け取った人が『次の書』を求め、どの『町』に向かうか迷っては意味がない。そういう意味で、私は『書を捨てよ――』に同意する。



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