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浅ましさと抵抗

実家にいるといろんなことに遭遇する。

固定電話に知らない番号から電話がかかってくる。
マンション営業や近くの電気屋さんもやってくる。
宅配の方にもかなりお世話になっている。

今日は、新聞の営業が来た。自分の住んでいるアパートには来たことがないため新鮮であった。まだあるんだ。そりゃあ、新聞がある限り営業は続く。お客に読んでもらうためのもんだもんな~と思う。

ピンポンがなり玄関に行く。立っているのは青年。新入社員なのか、とても爽やかで若い。こんな雨の日に大変だなと少し申しわけなく思う。わざわざ今日じゃなくても良かったのでは?など色々考えてしまう。

最初なんて言ったのかは聞き取れなかった。ただ、手に持っている物を配っていると聞いて、いただけるのならと反射的に玄関を開けて話を聞いていた。少し聞き取れなかったが、新聞を取ってほしいということだった。

「いただける」と聞いた時に「要らない」としっかりと断ればよかったのだが、物をいただいた手前、断りづらいというジレンマに陥ってしまった。あーこういう時はっきりと断れたらなとつくづく思う。もともと、はっきり言えない人間とはいえ、はっきり言っていればお互いに「そうですか」で終わり、モヤモヤすることもなかったと思う。

そう、応対してからなぜかモヤモヤしていた。自分がモヤモヤしていたのは、自分の態度だ。決して彼の態度ではない。浅ましいというか、ショボい。はっきりしなかったが為にモヤモヤしている自分に更にモヤモヤしている。まだモヤモヤしているのもダサい。

「いただける」と聞いただけで話を聞く。
「いただけなくても」話を聞く人間でありたい。
しかし、お互いを結びつける、話をする機会を作ったのは間違いなく、「もらえる」という言葉と実物だ。彼の話を聞くために玄関を開けたわけではなく、大した物でもないのに「もらえる」のならという自分の意志の浅ましさが玄関を開けた。その瞬間に自分は彼の話を聞くことが決まった。決められた。

ただ、その後の時間は無味だった。右から左へと話は流れていく。耳がもう聞いていない。お互いにとってアンハッピーだ。

彼が敏腕営業マンだったら(敏腕営業マンは来ないか)玄関を開けた時点で契約までの算段をたてて、私はあっさりと3カ月分の新聞を契約していたかもしれない。

まだ足を使って地道に営業をしている新聞社はすごいなと思いながら、自分の浅ましさにガッカリした土曜の昼下がりでした。

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