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高架下

あまりの重さに気怠い軌道で向かってきたバッグを、来ると分かっていながら受け止めきれずに左へよろめいた。

男ひとり分の体をよろつかせておいて尚、勢いを持て余したワインレッドのそれは、ぐわんと旋回して今度は女の体をよろつかせた。

でかいバッグの女は好きじゃない。
荷物も重けりゃ全てが重い。

乾いた嘲笑を呑み込んで、めんどくさ、も呑み込んで、
『悪い…』と一言、アスファルトの上に置いた。革靴とハイヒールのちょうど間の辺り。

仕方ない。
物事には流れというものがあって、
別れを切り出すのがこっちなら、
バッグでぶつのはあっち、
『悪い』と謝るのはこっちで、
大息ついて去るのはあっちだ。

沈黙の中、アスファルトの上の一言をじっと見詰め、ひたすら待つ。
夜道の端で固まる男女を横目に、若干避けながら通り過ぎていく人達。
次はお前の番だろ早くしろよ…、と込み上げてくる苛立ちは、微塵でも滲ませたならややこしくなる。
ただ弱々しくうなだれて、伏せたまつ毛にそっと意思の強さを乗せておく。もう『別れ』しか見ていない、そんな意思の強さ。

それが一番、効果的だ。

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教えてくれたのは、数学の教師だった。

どうしてあの人とそうなったのかは、覚えてもいない。
25のあの人はショートヘアでいつもスカートを履いていた。
水色のアパートで一人暮らし。小綺麗な部屋だった。
机の横を通る際にノートの上を指でトン。それが合図だった。
暗い夜道を15分。無灯火の自転車のペダルをぐぅんと踏み込むと、夜空に吸い込まれていく気がした。

特になんの感情も気持ちもなく、ただ流され流れるように。
行為はいつも始まっては終わっていった。それでも呼ばれれば行ったんだから、思春期の男子なんてそんなもんなんだろう。
大学からの彼氏と別れたばかりの25歳と体だけでかくなった15歳。利害の一致、損得勘定、そんな関係。

だから高校に上がってクラスの子から告られて付き合うことになった、と伝えた時のあの人の涙には驚いた。同じ立ち位置に居たはずの二人は、全く違う場所に居た。

ぶたれ、謝り、去るのを待つ。
この流れを知ったのはこの時だった。
水色のアパート、沈黙の中、『帰って』の一言をじっと待ったのを覚えている。

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ようやく乱暴なハイヒール音が鳴り始める。
でかい音はなかなか闇に消え去らない。歩く音さえもみっともない女だ。

─女。

とは、よく分からない生き物だ。
女というのは、気づけば側に居る。足音すら立てずに近づいてきて、ある日すっと猫のように擦り寄ってくる。絡みついて離れない。気づいたときには、そうなっている。

─愛。

というのもよく分からない。
生ぬるく柔らかい、湿ったものの奥底にそれが存在しているようで、掴もうと弄ってみても、それは一度もこの手に触れたことはない。幾度か繰り返す内に馬鹿馬鹿しくなって、もうやめた。

『来るもの拒まず、取っ替え引っ替え。お前、人に言えない恋愛ばっかだろ。』

誰かの捨て台詞は、春風のようにふわりと過ぎる。どんな言葉も得体のしれない空気のようで、手に取ってまじまじと見る気すらしない。そんなこと、考えることすら馬鹿馬鹿しい。


失恋した友人の涙に一切共感出来ないまま立ち尽くすブレザーの奥には、虚無感。
一人の女に一喜一憂するほど非効率的なことはないし、なにより一人の女の中にそれほどまでの価値など見たことがない。
この友人は、その女子の中に何を見ているのだろうか。
夢のような、妄想のような何かだろうか。
悪いけど、僕には何も見えない。

擦り寄ってくる女達の中に、相変わらず利害の一致だけを見出し、相手にしてみたり面倒になってみたりして、いつの間にか大人になった。
あの頃の先生の年齢をひとつ追い越して振り返る景色は、一言でいうなら無味乾燥。

金曜の夜、右腕にまとわりつく鈍い痛みにうんざりしながら、過ぎ去るヒール音に静かな自由を感じてる、そんな下らない人生だ。


『人に言えない恋愛ばっかだろ』


いつかのあの言葉がふわりと脳をかすめていく。そこに微かに入り混じる、棘のような痛みを冬の寒さのせいにして、家路についた。

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朝7時半、改札口を出ると途端に朝日が容赦なく突き刺してくる。毎度毎度苛つきながら、瞼で抵抗する。

足早に右へ曲がると、大きな影に入る。
行き交うトラック、ヘルメット姿の男性、白いフェンス。
もういつ始まったかも分からないこの駅の工事。解体したり構築したりを延々と繰り返しているようにも見える。新卒で入社した時にはもうこのフェンスが設置されていたから、もう4年程もやっていることになる。そして、それはまだまだ終わりそうにない。


高架橋をつくっているそうだ。
斜め上には造りかけのそれ。4年もかけてこれかよ、と思った瞬間、じゃあお前がやってみろよ、と声がした。
まだまだ完成には程遠い高架橋を見上げて、さらに完成に程遠い自分自身にうんざりする。

しゃっくん。

突拍子もなく乾いた破裂音がした。視線は遠くの高架橋から、すぐ側へと落ちた。

すれ違いざま、一瞬止まった小柄な女性もその足元に目を落とした。黒いヒールに踏まれた枯れ葉が、アスファルトの上でばらばらに砕けていた。

暗い高架下、フェンスの隙間から断続的に差し込む光の一部が、伏せた小振りの目元をすっと照らした。
やや上向きにカールしたまつ毛の先が淡い光に白けて、瞼の柔いグラデーションはさらに柔く溶け合った。


きりっと冷えた風が過ぎる。
風は糸のような彼女の髪の毛をするすると弄び、その隙間から香りを溢していく。それは、彼女の後方に豊かに広がり、すれ違いゆく僕を後ろから包み込む。

それはシャンプーか、香水か、彼女の体温か、朝の陽か、冬の風か、はたまたそれら全てが溶け合った香りか。
脳内が膨張する。ぼうっと霞んでいく。思考は止まる。

コツコツコツ…と遠のく音だけが頭の中に強く響いた。
だいぶしてから振り返ると、ふたりの距離はこんなにも開いていて、セミロングの毛先が、駅の入口に吸い込まれていくところだった。

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彼女とは、いつからすれ違っていたのだろう。

その日から、毎朝彼女を見た。
週5日、7時半、造りかけの高架下。

細く艶めく髪の毛を、彼女はたまにまとめたり、たまに下ろしたりした。一本一本が朝日を浴びて繊細に揺らめいた。
伏し目がちな彼女の瞼には、たまに軽やかなピンクが乗り、たまに深いブラウンが息づいた。

そして香りはいつも、あの香りだった。

彼女はどこから来てどこへ向かっているのだろう。
どんな仕事をしていて、どんな声で笑い、どんな癖があって、どんなことで泣いたりするのだろう。
高架下に響く華奢なヒール音を聴きながら、そんなことをよく考えた。

彼女が去る地に、僕は向かう。
僕が降りた駅から彼女は旅立つ。
毎朝ふたりはすれ違う。
ふたつの影は交差する。
冬が深まってゆく。
枯れ葉は舞踊っている。
朝日は強さを増してゆく。

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ある月曜の7時半、彼女はそこに現れなかった。

それ以来、彼女を見たことはない。

いつの間にか、僕は28になった。
相変わらず、7時半にあの場所を通っている。
高架橋はいつの間にか、あんな所まで伸びている。

しゃっくん。

乾いた破裂音がして、一瞬で2年前の冬に連れ去られた。


風に巻き上げられる糸のような髪の毛。
広がり、僕を包むあの香り。
咄嗟に振り返り、必死にあの背丈を探す。

そこはいつもの7時半だった。
鮮明な彼女は、僕が創った幻だった。

歩き始めようと足を上げると、枯葉の残骸に朝日が燦々と降り注いだ。

枯れ葉は土の上に落ちるべきだ。
土に乗り、ゆっくり朽ちて、土に抱かれて溶け合うべきだ。

こんな無機質なアスファルトの上、同化することも混じり合うこともなく、ばらばらに砕け散っただけの枯葉を見つめた。

幾度かすれ違っただけの誰かを、まだ探している僕は可笑しいだろうか。
声も知らない誰かの笑い声を再生し続ける僕は滑稽だろうか。
いい歳して初恋などと、人は嘲笑うだろうか。

始まれも終われもしないこの想いは、いつ消えてくれるのだろう。
恋とも呼べないというのなら、この苦しさは一体何なのだろう、教えてほしい。

目的地を見据え、着実に伸び続けていく高架橋の影に、未だすがりつこうとしている。
きりりと冷たい風が正面から吹き付けて、鼻腔にしみた。
その痛みに徐々に呼吸が加速して、瞳がじわりと濡れていった。

枯れ葉はさらに誰かに踏まれ粉々になり、車に轢かれて粉塵になり、吹かれ飛ばされいつの日か、風と同化するのかも知れない。
風に抱かれて溶けていくなら、枯れ葉は幸せなのかもしれない。

僕はこのまま、冬をいくつ越えられるだろう。
際限なく蘇る鮮明な幻に、耐え続けられるだろうか。

『人に言えない恋愛』の真ん中に、僕は今、初めて立ち尽くしている。

この高架下に、もうずっと、立ち尽くしている。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!