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未来とバクソー


 お腹すいたなぁ、と呟きながら、夫がキャビネットの中を覗いている。いつもなら、スナック菓子や菓子パンなんかが入っているそこは、子供達に先を越されて目ぼしいものがもう残っていなかったようだ。
 少しすると、彼はいそいそと下の段から小麦粉やら調味料の袋やらを取り出した。調味料は、彼の母国インドネシアのもので、牛肉や野菜の風味がする。
 彼は水や塩や鼻唄を織り交ぜながら生地を捏ねていく。
 いつの間にか、団子がころころといくつも出来ていた。ちょうど、親指と人差指で作った丸にはまるくらいの団子の群れ。鍋を煮立たせそこにそれらを泳がせる。
 よく泳いだ。互いにすれすれまで寄っては離れ、自由な風で、気遣っている風で、やはり自由によく泳いでいた。ザルにあげると、冷蔵庫から、これも母国のチリソースを取り出して小皿に絞り出した。
 赤いソースを半分被った団子は、彼の口に運ばれていく。
 食べない?と促されフォークに刺さったそれを受け取り、頬張った。生地の風味と弾力にソースが絡まり溶け始めると、私の脳はあの国のあのアパートの前のあぜ道を映し出した。

『バクソーのにせもの、ね。』

 柔らかな笑み。彼の目尻の皺は、いつからこんなに深かっただろう。

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 結婚してまだ数ヶ月の頃、都内で古い一軒家を借りていた。
 仕事休みの私はテレビを観ていて、その横で無職の彼が昼寝していた。無防備な昼下り。四角い画面の中には、別世界が広がっている。何を思うでもなくただ流し続ける別世界。そのとき突然、はっきりと夫が口走り、私はびくっと硬直した。

『バクソー来たよ!ハニー、バクソー!ねぇ食べない?』
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 バクソー、というのは、牛肉や鶏肉などの肉団子のことだ。
 どんぶりに、麺、バクソー、キャベツなどの生野菜を入れ、汁をかける。そこにチリソースを好みでかけて、混ぜながら食べる、インドネシアの国民食。
 これが、屋台でやってくる。
 マンゴーやパパイヤが生るあぜ道を、のらりくらりとやって来る。たまに、カンカンカンと丼をスプーンで叩きながら。
 すると、民家から百円ほどの紙幣を振りながら子供達が、その後に続いて大人達が笑顔で出てくる。屋台はゆっくり停まる。手際よく出来上がったほかほかのどんぶりを受け取り、彼らは縁石などの上に並んで腰掛け、あぁうまい、と夢中で食べるのだ。

 彼の耳に、どんぶりの側面に跳ね返るスプーンの音が鳴っている。向こうの方から屋台が、日焼けした男がゆっくりと押し来る屋台が見えている。
 ねぇ食べる?急いで屋台捕まえないと!

 私はじっと彼の寝顔を見詰めていた。物音立てず、微動だにせず。
 彼はちゃんと屋台を停めて、ちゃんとお金を持ち合わせていて、ちゃんと買い、小高い縁石に腰を下ろし、私と共にバクソーを食べられただろうか。ちゃんと、最後の一滴まで。
 屋台のお兄さんと言葉を交わし、温かく吹く風にバナナの葉が揺れて、あぁ美味かったよと、どんぶりとスプーンを返したのだろうか。
 私は喉から衝き上げるように込み上がってくる熱い塊を必死に押し込めて、零れて来ないうちに目頭を抑えた。

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 『バクソーのにせもの、ね。』
そう言って笑うこの人は、その人生の中で一体何度、バクソーを食べるはずだったのだろう。
これまでの人生、一体何度、私はバクソーを奪ったのだろう。
これからの人生、一体何度、彼はバクソーを食べられるのだろう。

 彼が犠牲にしたもの、耐えた時間。
この手で彼に返していけたら、嫌気が差すほど遠くに霞む幸せが、少しはこちらを見てくれるような気がした。




ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!