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思い出、道路に転がして

小学…何年生の頃だったろうか。
2年…いや、3年生だったかも知れない。

クラスに転校生がやって来た。
先生がにこやかに彼の紹介をし、「じゃあ一言、あいさつを」と振ると、彼は挨拶をする代わりに私達をギリッと睨んだ。
強い黒目が白目の光を引き立たせ、短く濃いまつ毛の線が、眼球を際立たせていた。

──蛇。

人の目が蛇のそれに見えることがあるのだと、その時、初めて知った。

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その後彼は、遅刻したり、途中で消えたりするようになった。教師を蹴ったり、クラスメイトを殴ったりするようになった。

あれは5年生の頃だろうか。
いや、もう少し幼い、4年生くらいだったかも知れない。

帰りの会で、担任から集金袋を手渡された。
私の視線がふわりとその茶封筒の上に落ちて、氏名欄に貼り付いた。
「不吉」の同義語のようなあの名前が、しっかりとそこに書かれてあった。
「最近、来ないからねぇ。湖嶋さん、家が近いでしょう。明日の朝寄って、お金入れてもらってきてくれない?」

子供が、別の家庭の金を運ぶ─。
給食費を口座振替するなど誰も思いつかない、数十年前のことである。青森の小さな田舎町の話である。個人情報はあけっぴろげで、縦にも横にも、なんなら斜めにも繋がりまくりの町だ。まるで子供におつかいを頼むように、担任はぽんとそれを私に手渡した。

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私の通学路上に、彼の家はあった。
水色で比較的新しい2階建ての家。私はその家の前を横切るとき、いつも小走りになった。
横暴なあの子が出てきそうだから、という理由も確かにあったが、それだけではない。
窓という窓、その全てから、ボロボロに引き裂かれたカーテン、ビリビリに破られた障子が見えていたからだ。
わたしにとっての非日常が、彼らにとっての日常なのだという違和感と恐怖心が、私の足を急かした。
窓ガラス1枚の心許ない薄さをなんなく通過して、黒く淀んだ空気が地を這ってくる。暴力的な火花が襲いかかってくる。早く。1秒でも早く。逃げなきゃ。
アスファルトだけを見て足早に通り過ぎ、T字路までたどり着くと、やっとそこで、ほうっと安堵するのだった。

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朝からお腹が痛かった。手提げ袋からのぞくあの茶封筒が目に入る度に溜め息は出た。
足取りが重い。
怖い、気まずい、行きたくない。そんな思いが、足首に、膝に、まとわりつく。
真っ直ぐ進んでT字路を曲がると彼の家。あっという間に着いてしまう程に近所だ。

朝日があの窓ガラスを照らしている。

私は玄関へとにじり寄ると、弱々しく彼の名字を呼んだ。
返事が全く無い。物音もしない。
私は自分の名前も名乗ってみた。
こんこんこん、とドアを叩いて、もう少し大きな声でまた、彼の名字を呼んでみた。

すると、カチャッと上から音がした。
「誰?」
あの声がして、私の足を凝固させる。
私は玄関から後退りして音のした方を見上げた。
大きく開いた2階の窓から、ビリビリのカーテンを寄せて彼が顔を出していた。

「あ…あの、これ…。」
私は握りしめていた茶封筒を高く掲げて見せた。
「あ、給食費?オッケー。」
そう言うと、バタンと窓を閉め、ダダダダダと階段を駆け下りてくる音がした。
ガチャッと開いた玄関の扉の奥から、彼の顔と手が出て来た。

「はい…。」
差し出した封筒をパッと取り、彼は言った。
「どうも。ちょっと待ってて。」
そう言い残しながら、ドアをバタンと閉めた。

親にお金を入れてもらうんだろう。私にはあの集金袋を回収し、担任に届ける義務がある。これを毎月やらなくてはいけないんだろうか。彼はいつまで学校を休む気なんだろう。

私は少しずつ玄関から離れると、その家の敷地と車道の際に立ち、スニーカーで砂利をいじったりしながら待った。時折、カタンッ、パタパタなどと彼が動いている音が聞こえた。
砂利をいじる私の横を、何人か小学生が通り過ぎて行く。私は時間を気にしながら、ちらちらと2階の窓や玄関のドアを見たりした。

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どのくらい待っただろうか。
もう、登校する小学生達の姿も見えなくなった頃だった。
ガチャッと玄関のドアが開くと、そこに立っていたのは、着替えを終えてランドセルを背負った彼の姿だった。
よれたTシャツにハーパンでぷらぷらと茶封筒片手に出てくるのを予想していたのだ、私はあ然と立ち尽くした。するとそんな私を見て、なぜか彼もあ然と立ち尽くした。私の脳は、よく機能しないまま一言目を発した。

「あ、給食費は…、え、学校行けるの…?」

「うん今日は行くけど。え、待ってたの?」

「いや、ちょっと待っててって言われたから…。」

「えっ嘘!」

そう言って彼は、アハハと大きく笑った。

「俺そんなこと言った? 無意識!」

「言ったよー!だからずっと待ってたのに!」

ごめんごめんと彼が笑う。
もう遅刻だよー走ろうと私が急かす。

笑いながら私達は走った。駆け抜けた、あの急な坂道を。あの朝日の中を。
私は、少し前を走る彼を横目に見た。耳の縁と頬に朝日が乗って、白く光っていた。

蛇は居なくなっていた。
もうどこにも、見当たらなかった。

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中学校の入学式には居たはずなのに、その後彼を見かけることがなくなっていった。
友人が出来たり片思いをしたりして、私なりに忙しくなった。
その後、市外の高校に進んだ私は、どこに進学したかも知らない彼と全く接点が無くなった。
そして大学進学のために山梨県に引っ越して一人暮らしを始めた。
大学3年のお盆に帰省すると、彼が新聞に載ったと聞いた。
暴力事件を起こしたのだと聞いた。
もうハタチ過ぎたからね、顔も本名も載ったんだよ、と母が言った。

麦茶に浮かぶ氷を見ていた。
グラスの側面を、すーっと水滴が滑り落ちていく。はじめは躊躇するようにゆっくりと、そして周りの水滴を次々に巻き込み吸収しながら重みと速度を徐々に増して、最後はテーブルの面に垂直に落下して滲んだ。

あの日確かに彼は私の横にいたのに。同じ目線で同じタイミングで笑ったのに。子供らしく朝日に照らされてランドセルをカタカタいわせて駆け抜けたのに。細く揺らめく瞳の中に、蛇はいなかったのに。

それでも容易に想像できるのがやるせなかった。暗い灰色の解像度の低いザラついた紙に印刷された顔写真の瞳には、きっとあの蛇が宿っていただろうこと。

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「でも、あの子ねぇ…」
母の声にはっとして、視線が麦茶の氷の上に戻る。

両親が離婚して父親について引っ越して来て、でも父親と姉から叩かれたり殴られたりしていたそうだよ。真っ赤な顔して泣き叫びながら裸足で飛び出してきたりしたって、近所の奥さん言ってたわぁ…。

蘇る、窓枠の中のビリビリのカーテン、ボロボロの障子。

いつも怖くて逃げるように通り越していたあの家。
でも、何よりも怖かったのは…、そうだ、あの、真っ赤なスプレーで物置小屋の側面に書かれた「母」という一字だった。
恐ろしかった、その文字から真っ赤なスプレーが血のように垂れていたから。

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真っ直ぐ行ってT字路を曲がる。
私と彼の家の間に伸びる一本線。
あの線上には、一歩進むごとに私の様々な思い出が転がっている。
遊び呆けて、杭に引っ掛けた飼い犬を忘れて帰宅し泣きながら戻った野原、下校途中で友達と吸ったほおずきの渋さ、アスファルトにチョークで描いた色とりどりのケンケンパの丸、皆でつららを舐めながら登校した朝の誇らしさ。

あの線上に、彼は一体いくつの思い出を創ったんだろう。

泣きながら裸足で飛び出した日の砂利の痛さか。
思わず殴り書きした母への思いと立ち込めるスプレーの匂いか。

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ねぇ。

あの日の朝日は明るかったよねぇ。
必死で走る背中に揺れるランドセル重かったよねぇ。
あぁ待ってと門を閉めようとする先生に走り寄ってギリギリセーフ、滑り込んだときは笑えたよねぇ。


ねえ。

君はとっくに忘れただろうそんなちっちゃくてちっぽけな思い出を数個、あの道の上に転がしといてよ。

ねえ。

私もおんなじの転がしとくから。
そんなもんくだらないって思うかもしれないけどね、
人生は、そんなんでもある方がまだいいみたいだよ。

ねえ。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!