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闇を照らす月を食べた

ココンコココッコ、コンコンッ。

軽やかな明るいノックに乗って、彼の感情が伝わってくる。
それは、私の色と同じ色をしている。
たった数メートルのその距離をタタタタッと駆け寄って、私はふわっと扉を開けた。
柔らかい視線とつながる。
紐が解けていくように、表情が溶けていく。


「ほら。」
差し出されたのはビニール袋。そんな物よりも先にこの人に触れてしまいたい。まるで二人の間に挟まる障害物のようなそれ、でも私のために用意してくれたんだろうそれを受け取りながら、私は尋ねた。
「なぁにこれ?」

「昨日言ってたでしょ、チョコレートケーキが食べたいって。でも仕事上がりのこの時間はもうこんなのしか売ってなくって…、ごめんね。」

ビニール袋の中の障害物は宝物にかわった。
嘘のように、あっさりと。



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十一年前の南国バリ島に、私達二人はいた。

繁華街から程遠い地区に安いアパートを借りた。バイクや車が行き交う道路を、いつも二人でゆっくりと歩いた。バックパッカーの私と日雇いローカルの彼には、金も無ければバイクも無かった。

入り口に可憐な花が藤棚のように垂れ下がるこのアパートは家賃四千円。窓には大きくKAK GARDENと書かれていた。私がその文字を眺めていると、隣で彼がカッガルデンと発音してみせた。カッ…ガルデン…とたどたどしく繰り返す私に、おじいちゃんの庭、という意味だよと彼は笑った。

一面ブルーに塗られた部屋の壁が、出会って四日で結婚を決めた若い二人の熱を少しだけ中和させている。


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二人でスーパーから歩いて帰っていたある夜のこと。
温い風が通り過ぎたと思ったら、ぶわっと甘い香りが私を包んだ。反射的に、私の脳はあの映像を再現する。
ふわっと開くドア。柔らかな瞳。揺れるビニール袋。

袋の中には簡易的な紙箱が入っていた。湯気と熱で柔らかく濡れて歪んだ蓋を開いてみる。
そこには、しっとりと汗ばんだ月が入っていた。
月は、やっと外の空気に触れられたとでも言うように、甘く熱い息をふはぁと吐いた。

満月をぱたんと半分に折りたたんだようなきれいな半月。大きく厚みのあるそのパンケーキの中心に挟み込まれた甘ったるいチョコレートは、生地に滲み、混じり、溶けこんでいた。
私が食べたいと繰り返していたガトーショコラのようなチョコレートケーキとは似ても似つかないそれは、たった一口で見事に私を満たしていったのだった。

あの匂いだった。

「あの匂いがする。あのチョコレートケーキの……。」
すると彼は、あぁと笑みを浮かべて斜め前を指差した。
濃紺の闇にぽうっと光る一角。黄色や赤の派手な垂れ幕が見える。その露店の周りには、多くの客が集まっていた。
足早にその場所まで向かうと、人混みの合間から店の奥が見えた。黙々と動く二人の若い男性。
熱気に汗ばんだ褐色の腕。黒い瞳が一心に見つめる手元には、いくつもの満月が並んでいた。
均等な円形は黄金色にふくらみ、その上にはチョコスプレーとコンデンスミルク、そしてシュレッドチーズが手際よく振りかけられた。鉄板の熱でそれらが溶け合ってくる頃にヘラが器用に舞い、流れるように満月は半月になっていった。そしてその甘い半月は、飛ぶように客の手に渡っていった。

人混みに混ざってなんとか手に入れた私の半月は、揺られながら静かに息をしているようで、ビニール袋は次第に白く曇っていった。満足気な私に、彼が言う。

「このパンケーキは夜にしか売られてないんだ。
名前がトゥランブランだからね。Terang bulan。明るい月っていう意味だよ。」


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一日五百円。
それが当時の彼の日給だった。
このパンケーキは一枚百円だった。

微々たる給料から私に何かを奢り、「いや自分で払うよ」という私に「まだ三百円あるから」と笑顔でジーンズのポケットをポンポンと叩いた。

いや、それは彼だけではなかった。彼の友人もそうだった。彼の妹もそうだった。
ここはそういう島だった。

私は息をゆっくり吐きながら、真っ白な光を仰いだ。汚れや偽りの一切混じらない清らかな光を。

この島は、時計の針よりも月の満ち欠けを信じている。その光の加減に添って日常や人生が形どられていく。
神に捧げる宗教行事は彼らの人生において最優先であり、それらは全て月の流れを中心に日程が決まっていく。観光業で成り立つこの島が、唯一観光客に譲らないものがそこにある。
ゆっくりと進む、いやむしろ全然進まないバリヒンドゥー教の葬式の参列に出くわしたら最期。フライト時刻に間に合わない、急いでくれと焦るツーリストに、タクシー運転手は笑って言う。「しょうがないじゃないか。ここはバリだよ。」
フライト変更くらいどうってことはない。空港ごと閉鎖する日だってあるくらいだ。

神と同様、月は絶対的な存在なのだろう。
月は、彼らの人生に溶け込んでいる。
いや、月はすでに彼らの人生なのかも知れない。

「明るい月」を夜に売る。
そんなおとぎ話のような日常が受け継がれていくのが、この島だ。



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夜中目が覚めた私は、勿体ないと残しておいたあのパンケーキが気になった。彼を起こさないようにそっとベッドから抜け出して、紙箱を手に取ると、静かにテラスへ出る。
ぽっかりと夜の空に浮かぶ月に照らされた箱には、数匹の蟻がくっついていた。
ふうっと強めに息を吹きかけると、黒い蟻は夜の闇に消えていった。
私は、まっさらになった蓋をすっと撫でると、そっと開けた。
もう冷めて引き締まったその生地は、月の灯りに照らされて息を吹き返していった。
それはじんわり染み入って、強く清らかな意味を宿したようだった。


一口大きく頬張ると、それは私の喉元からこの体内に流れ込み、広がっていった。
柔らかな光が、確かな意味が、私の体にじんわりと広がっていった。

今、大きく動き出そうとしている人生の真ん中に立つ未熟な私の体に、月光が差していった。
不安や困難という名の深い海に飛び込もうとしている私の体に、月が満ちていった。



この島の人達が、食べ物に月の名前をつける意味が分かった気がした。
月を食べようとする意味が分かった気がした。
闇を照らす食べ物が存在するという意味が、分かった気がした。




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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!