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地球が人間を乗せて回るから

「あーそれねぇ。ブラックマジックもらっちゃったのかもねぇー。」

ぽっかりと、行き場を失った空気が漂った。
半開きの口を閉じようともせず、かといってその口から何の音も発さない私を見て、その人はケラケラと甲高い声で笑った。

「よくあるよーこの島じゃ。そんな顔しないでよー。」
肩をバンバンと叩かれた反動で、やっと口が閉じた。

この島では常日頃から、ブラックマジック─黒魔術─がびゅんびゅん飛び交っていて、敏感な人は知らぬ間にそれをキャッチしてしまうことがあるそうだ。

私はフェンス越しに外の景色に目をやった。真っ青な空、揺れるヤシの木、降り注ぐ太陽。その中を、Tシャツにビーサンの褐色の肌が行き交う。
こんな景色の一体どこに、そんな恐ろしいものが飛び交っているというのだろう。
南の楽園、神々の島、その呼び名の一体どこに、そんな恐ろしいものが隠されていたのだろう。

このバリ島の、一体どこに─。

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11年前の9月。夏の明るさを引きずる太陽とバックパックを背負って、私は日本を飛び出した。バックパックの中には世界一周券。
韓国、ベトナム、シンガポール、マレーシアと流れ落ち、私はインドネシア・バリ島に降り立った。
空港から出ると、辺りはもう真っ暗だった。タクシーに乗って繁華街まで出る。宿はもちろん決まっていない。タクシーの運転手に紹介してもらった中で一番安い宿は1泊500円。
小さな看板にはアノム・デウィと書かれてあった。「アノム…デ…デウィ…」とたどたどしく読み上げる私に、「ヤングボーイ・ヤングガール」と看板を指差しながら運転手が訳した。若さ余って国を飛び出した旅人が集う安宿といったところか。大部屋に雑魚寝かな、などと考えながら敷地内に一歩足を踏み入れた。その瞬間、私の口が動いた。
「ここにする。決めた。」

入ってすぐの中庭には大きなガゼボがあり、スタッフだろうか、2、3人がごろごろと横になって薄暗い灯りの中、テレビを観ている。
その奥には小さなヴィラの屋根がぽこぽこ見えた。
「1人用の……私専用のヴィラなの?」
「小さいけどね。ベッドルームとシャワールームだけの。」
物静かな受付係が笑顔で言う。

1人きりの空間。
男女ごちゃまぜ十人部屋で寝泊まりしてきた私には贅沢過ぎるくらいだった。

せっかくの青い空もヤシの木も、漆黒の闇に塗りつぶされて何も見えない。
早く寝て早く朝日に照らされよう。
そう思ってベッドに入った。

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何時間眠っていたのだろうか。私がぼんやりとまぶたを開けると、数秒遅れでゆっくりと鼓膜が起動し始めた。
人々の話し声、カチャカチャという食器の音、犬の鳴き声。あぁ寝坊だ。朝型の私には珍しい。バリ島はもう起きていて、こんなに賑やかだ。まずは歯磨きをして、と起き上がろうとして全身の重さと怠さに愕然とした。
頭なんて岩のように重い。
痛みはどこにも無かったが、動けず歩けず食べられなかった。
私はそのまま数日をぐったりと過ごした。

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「あんなこと初めてだったんで、もうビックリしましたよー。」
私がそう嘆くと、彼女はアハハと明るく笑った。バリ島が乗り移ってしまったかのような快活な日本人女性。この島にはもう30回も来ているのだという。どうりで、ここのスタッフとももう顔馴染みなようだった。

そんなバリ島を知り尽くしたような彼女が、あっけらかんと口にしたのだ。黒魔術という昔話のような浮世離れしたワードを。この島では日常なのだというそのワードを。
誰かが誰かに向けて放った黒いエネルギーを、アナタもらっちゃったのねと。よくあることなのよと。

この数日後に私はある男性と出会い、その数日後に結婚を約束し、その数日後に世界一周旅行をキャンセルすることになった。

薄々気づいてはいたが、この島は、なんかおかしい。

世間体や人生計画などのすべてを根こそぎ凪倒し、力強い渦にぐるぐると引きずり込んでいく、そんな引力がこの島にはある気がした。
そんな魔力が、この島の海底には渦巻いているような気がした。

物価が安く薄給のジャワ島東部から、出稼ぎなどの理由でバリ島に出てくる者は多い。日本で言うなら上京組といったところか。夫もそのうちの一人だった。

私達はそれぞれバリ島に引き寄せられ、出会い、激しい渦に巻き込まれてぐるぐると一つになったのかもしれなかった。

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結婚して日本で暮らし、長男、次男が生まれた。孫の顔を見せに、私達はジャワ島へ帰省することにした。

バリ島とジャワ島は目と鼻の先で、フェリー乗り場のある岬からは、互いの姿が見えるほど近い。
フェリーに乗り込み少しした頃、デッキに出てみた。温い風が吹き抜けていく。ゆっくりと、緑のジャワ島が近づいてくる。すると故郷の島を眺めながら夫が話し始めた。

「元々はね、バリ島とジャワ島はくっついていたらしいよ。」

え、と思わず声が漏れて、私は真下に視線を落とした。深い青緑色のインド洋が波打っている。

「ずっと昔、バリ島の王がね、破門にした息子が二度とバリ島に戻ってこられないようにって陸を海底に沈めちゃったんだって。」

フェリーは港につき、私達はジャワ島の地を踏んだ。後ろを振り返ると、緑がこんもり茂るバリ島が見えた。
縁を切れども、陸を沈めようとも、肉眼で互いの島を見られるこの距離には、揺るぎない親心が感じられた。王は毎日向こう岸からこのジャワ島を眺めたのかも知れない。
本当かどうかも分からない、まぁ常識でいったらあり得ない話。しかし、抱っこひもで次男を括り付け、長男の手を握りながら、私は親心が溶けたこの海峡をしばらく眺めた。

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家族で過ごしたジャワ島での一週間はあっという間に過ぎ去り、私達は涙で別れを告げると、帰りのフェリーに乗り込んだ。
離れゆくジャワ島の姿を見たくてデッキに出る。
インド洋の香りが髪の先をもてあそぶ。
次この海を渡れるのはいつだろう。
いっそのこと、この切なさをも連れ去ってくれたらいいのに、風はただただ髪の毛にまとわりつくだけだ。

「次、帰ってきたらどこに行こうか。」
夫がぼんやりとつぶやく。
ジャワ島は広く、観光スポットがたくさんある。

その時私の脳裏に立ち上がったのは、以前ネットで見た、暗いビーチだった。
黒っぽい砂浜に、どんよりとした海。それらが混ざり合う波打ち際はさらに黒さを増し、白い泡立ちに違和感すら感じるほどだった。

太陽に照らされたココナッツの下に広がる暗いビーチ。そのコントラスト、その落差が異常に私を惹きつけた。

何であんな所、もっと楽しい所があるでしょ、と微笑した後、少し間をおいてから夫はある伝説を話し始めた。

「あそこの海にはね、女王が沈んでいるんだよ。キドゥルっていう女王が…」
 

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その昔、ジャワ島中部のジョグジャカルタに美しい姫君がいたが、その美しさを妬んだ者から黒魔術をかけられ醜い姿にされた。王宮にいられなくなりさまよってたどり着いた海で、彼女は「海水で身を清めれば元の美しい姿に戻る」という声を聴く。その通り海へ入ると、たちまち美貌は戻り、海底での永遠の命を手に入れた。

キドゥルはジョグジャカルタ王室と深い繋りをもつ。王はキドゥルと精神的婚姻関係を結び、キドゥルは王に特別な力を与えた。その繋がりは現代に至るまで代々続いている。

「ジョグジャカルタ王宮には地下道があって、キドゥルの宮殿へ繋がっているらしい。
今でも年に一度、キドゥルのための儀式が夜通しあってお供え物を海に流したりする。そしてそこに王は妻を連れて行ってはいけないんだ。」

海底の美しい女王は嫉妬深い。
彼女が沈むパラントゥリティスの海に行く人々は絶対に緑色の服を身に着けないという。
もしその決まりを破ったら、キドゥルの怒りに触れて、波にさらわれてしまう。
緑は彼女の色なのだそうだ。

王や側近、その他大勢の大の大人たちが、宮殿からの地下道を造り、大がかりな儀式を毎年毎年続ける。子供から大人まで全ての人が、あの海に行くなら緑は着ないと約束する。
見たこともない幻の女王のために。


異様だった。
まるで彼女を目にしたことがあるかのように、誰もが彼女の存在を確かに見ているのだ。
おとぎ話ではなく、伝説でもなく、彼女は人々と共に今を生きている。
時空が、常識が、ぐにゃりと歪んでいく気がした。


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なぜ、この島々の人達は、目に見えない存在と共に生きようとするのだろう。揺れる波を眺めながら考えた。
フェリーの通った線上に、波紋が連なっていく。それは海面に描かれた一本の道筋のようだ。この線の下に、果たして陸は走っているのだろうか。

海峡の底で2つの島がつながっているのが見えたり、対岸から眺める向こうの島に親の愛がみえてきたりする。
暗い海の底に緑色のドレスの揺らめきが見えたり、押し寄せる波の合間に女王の声が聴こえてきたりする。

それはもしかしたら、彼らの感情が私達の中にも存在するからかもしれない。

王の怒りや寂しさは、女王の嫉妬や孤独は、私達の中にも存在する人間的な感情だ。
信じるか信じないかを問うよりも先に、彼らはすでに、私達の中に存在しているのかもしれない。

空を飛んで降り立つと、そこはとんでもない場所だったりする。
黒魔術が体に入り込み、渦に巻き込まれ結婚したりしてしまう。
王が陸を沈めて造った海峡を渡った先に、海底女王が暮らしていたりする。
そんな、とんでもない場所だったりする。

だけどそこに染み込んでいるのは、この私となんら変わらぬ人間の物語だ。
日本の片隅から出て来た私が、バリ島の王の親心に共鳴し、ジャワ島の女王の孤独に寄り添ってしまう。


地球が人間を乗せて周り続けるからだ。
数々の物語を幾重にも染み込ませて。

だから私は旅をやめられない。

だから私たちは旅をやめられない。


きっと生涯、やめられないんだ。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!