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願い

 数年ほど前、長男とバラエティ番組を観ていたら、『元カレ』『元カノ』といったワードが画面からポンポン飛び出して来た。私の耳を擦り抜けたそのワードは、幼い息子の耳にしっかりと貼り付いたようだった。
「どういう意味なの?」と訊かれて、『元カレ』『元カノ』について簡単に説明した。
 彼は、「ふぅん」と興味なさそうに一呼吸置いたが、その後、弾かれたように私の顔を見た。
「ってことは、ママにも元カレがいるの?」

―――

 毎年、ある季節になると、テレビ画面の中を視線が彷徨う。
 朝のニュース番組から、あのバンド名が聞こえてくると、つい手が止まる。包丁を置いて、食器洗いをやめて、髪を結う手を降ろして、テレビの前に歩み寄る。
 きついライトの中、歌ったり叫んだりしているバンドメンバーが映っている。私の視線は彼らの後方に滑り込む。視線は、閃光を放ちながら切り替わる映像を縫っていく。

――いた。あの立ち方。背格好。髪型。楽器。リズムの取り方。彼だ。いた――。

 ツアーメンバーになって久しい。十五年前、私たちの間に数ミリの距離もなかった頃、彼は既にステージの一部だった。
 二人で行った海沿いの街。業界の裏話を聞きながらお酒を飲んだ夜を思い出す。穏やかな彼のフィルターを通して語られるエピソードはどれも温かいものばかりだった。

 当時私の職場は新宿にあった。仕事帰りの山手線。友人と喋りながら車内の液晶画面を見上げた時だった。そこに彼がいた。ファストフードのCMだった。一瞬思わず目を逸らし、確かめるようにそっと見た。その後は何気ないトーンで会話に戻った。
 当時まだ二十代前半だった女子たちの話題と言えば、大抵恋愛についてだったのだけれど、彼のことは誰にも言わなかった。付き合っている人がいる、くらいは伝えていたが、どんな人?と訊かれると、当たり障りのないことばかり答えていた。

 タイミングか縁か運命か。一度は絡み合った糸が解け始めた。
 会話の中に、結婚の文字がちらつき始めた頃、私の熱が少しずつ引いて行くのを感じた。二十代は自分のために使いたいという幼い私の思いと、三十代に入ろうとしていた彼の結婚願望。曖昧な返事や低いトーンの相槌が、徐々に二人の歪みを象っていった。ぴったりくっ付いていたはずの二人の間に隙間風が滑り込む。 

 その頃私の中である思いが頭をもたげ始めていた。以前から囚われていた夢。日本から出たかった。世界を見てみたかった。様々な人間、暮らしに出会ってみたかった。心臓が窮屈だと叫び始めていた。暴れ始める前にどうにかしなくてはならなかった。私は彼から離れることを決めた。バックパックを背負って飛び出した。
 四ヶ国目のマレーシアの夜に、彼から国際電話があった。安宿の外階段に座り、賑わう雑踏を見下ろしながら、携帯電話を耳に当てた。少し高めの懐かしい声。何度か私の名前を呼ぶ。返事をすると、「わ、ホントに繋がった」と彼の声は大きくなった。
 結構長く話した気もするが、話の内容は全く覚えていない。彼の友人の話だった気もするし、彼の仕事の話だった気もする。彼の車の話?いや、それは付き合っていた頃の会話だ。旅はどう?なんて話をしたのかもしれない。そっちはどう?とか。よく覚えていない。
 いや。嘘。
 今でも覚えている。彼が冗談めかして言った一言を。あの一言を完全に冗談にしたのは私だ。私の笑い声が、それ以上を彼に言わせなかった。
 覚えている。今でも、しっかりと。彼の温度。彼の沈黙。彼の笑い声。遠慮がちな、笑い声。

 電話を切ったあと、夜風に吹かれた。心許ない踏み板に体を預け、ただ吹かれた。ぬるい風は溜息も全部ひとまとめに抱き込んでくれた。目を閉じた。罪悪の味がした。
 顔を上げて、マレーシアの月に願った。君が温かい誰かに出会って、相思相愛になって、幸せを感じるよう。しばらくそうして、動けなかった。

 帰国して、どれくらい経った頃だろう。彼が結婚したと知った。子供が欲しいと言っていた彼だ、優しい父親になる姿が容易に想像できた。

―――

 今年もまたあの季節がやって来る。今年もきっと私は画面の奥に彼の姿を探すだろう。
 探して、見つけて、それで終わり。その先もその後もない。ただ、その姿が見られればそれでいい。きっと彼のことを書くのも、これが最初で最後だろう。
 
 ニュースは別の話題に移り、私は顔を上げる。行ってきますに行ってらっしゃいを返し、バタバタと家事を済ませる。リモコンのボタンを押して、画面を落とす。通勤バッグを腕に掛け、日常へと溶けていく。
 ニュース番組を眺める母と、その画面の中の人の物語など、息子は知る由もないだろう。



5月上旬に届いた便には
やっぱりカーネーションが入っていました
母の日でしたからね
「ねぇ、今日母の日なんですけど…」と呟く私に、
ハッとした表情で固まった3人息子
全力で踊りを捧げてくれました
花瓶の上に飾ってある木彫りは、
バリ島で夫と結婚した時に
二人で選んだもの
次男が作ってくれたブレスレットが掛かってます


#お花の定期便 (毎週木曜更新)とは、
湖嶋家に届くサブスクの花束を眺めながら、
取り留めようもない独り言を垂れ流すだけの
エッセイです〜


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ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!