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青色のおままごと #月刊撚り糸


そろそろだと思いました。
そろそろいい頃合いだと。
木曜日の午前十時きっかり、私はあなたのクローゼットを開けました。あなたの匂いがしました。昨日の夜のあなた、そのままでした。
左隅に置かれた三段プラケース、その一番下の引き出しをゆっくりと味わうようにスライドさせていくと、あなたの匂いは一段と濃くなっていきます。

一昨日はありませんでした。昨日もありませんでした。しかし遂に今日、見つけました。プラケースの中のそれは、古いネクタイや靴下に埋もれて、というか、『さり気なさ』という意図や意識に丁寧に覆われているようでした。

結婚当初、この引き出しの中に元カノの手紙や写真を発見してから、私は毎日のように確認しているんです。『気配』や『勘』などというものから一番遠いところに居るのがあなたです。気づく訳がないでしょうね。
というか何なんですかあの手紙。便箋の隅々にまで充満する図々しさ、馴れ馴れしさ。安物の便箋から汚臭が漂ってきそうです。本当にあんな女性を好きだったんですか?あなたが?
悪いですが、あの人はあなたに全然似合っていません。見合っていない。だってあなたはそこに居るだけで、それだけでもう十分な人なんですから。あんな言われ方をされるべき人ではありません。

あの引き出しでは、こまごま発見してきました。まぁ、あなたのことですから大したものは入っていません。引き出しに指をかけた瞬間のどろどろに渦巻く熱湯のような、ずきずきと突き上げる針のような興奮を越える、さらなる興奮を待ち侘びているのに、いつも期待外れなんです。まぁあなたのことですから、期待するほうが間違ってますね。

でも今日、遂に見つけました。
封筒には入っていましたが、手紙、とは思いませんでした。見慣れた市役所の封筒の中に静かに横たわる三つ折。そっと取り出し、広げて見ると、やはりこれは離婚届なのでした。とうとうあなたは決意したようです。見直しました。
たちまちにして、高潮という渦巻きはひっきりなしに湯気を吹き上げさらに渦巻き、高揚の針はその鋭利さという長所でもって幾度も私を突き上げてきます。ずっと待ち侘びていたものをやっと与えられた犬ころのように、私の瞳は潤み、そこに反射した世界中が輝くのです。

ーーー

あなたの顔にふわりと艶が乗ったのは秋でした。その声に微かに芯が通ったのは冬でした。あなたはきっとうまくやっているつもりだったんでしょうけれど、スーツをピシッと決めといて後頭部の小さな寝癖に気づかぬ人です、完璧なんてものを目指すのは、諦めた方が良いでしょう。
そんなあなたをただ、愛らしい、と思います。
あなたのような生態系を間近で観察し、その単純さ、懸命さ、いや、やはり単純さを愛でるのは本当に愉しい。
私という女は、実に幸せ者です。


浮かれ気味のあなたを怪しみ、SNSの世界を彷徨いました。
あまりにあっさりとしたあなたのアカウントを見つけたとき、その裏側にあなたの影を見た気がしました。勘を手繰って進みましたら、やはり本当のあなたはそこにいました。
まるで幼少の頃のかくれんぼのように私は喜々として声を発しました。

「みぃつけた」

あの青い鳥が飛ぶ街で、あなたはまるで別人のようです。スミカワヨウイチという名前を脱ぎ捨て、恥ずかしげもなく左胸に、オス、と貼って。けれどそんなはしたない所にも可愛げを感じてしまうんですから、私もいよいよ困ったもんです。

あなたはある女性と半ば堕ちていくように親しくなっていきました。
その人は、保育士、28、休日はひとりでカフェ巡り、ミディアムヘア、職業の反動で普段は甘めのワンピース、詩集を読む、長編小説は途中で挫折しちゃう、スタバならホイップクリーム少なめの抹茶ラテ、恋人とは倦怠期、小型犬に目がない、涙腺弱くてCMでも泣いちゃう、でも先輩保育士のイビリには負けたくないから頑張っちゃう、夜にふらりとコンビニにアイスを買いに行くのが好き。

ひとりで行くの?夜に?
はい、夏の夜とかふらふら~って
危ないよ、やめた方がいいよ
大丈夫ですよ〜スッピンのおばさんなんて誰も襲わないです
いや、ホント気をつけなきゃだめだよ?

細い糸で交互に会話がぶら下がっていくのを眺めていました。その数だけ重量は増していき、ぶらん、ぶらん、と揺らめきます。最後のあなたのひとことには、ともすれば『ぼくも一緒に行ってあげようか?』などと、真夏のダッシュボードに粘り付く飴のようにだらしない言葉がぶら下がって来そうでした。が、しかしそこで、絡み合うような二人の揺らめきは突如停まったのです。
私は焦り、不安に駆られて画面右下のメールマークを見つめました。あなたはきっと今頃、ダイレクトメールをせっせと作っているのでしょう、可愛い彼女へ秘密のお手紙を書いているのでしょう。人目を気にし暗号めかすのではなく、思いのまま欲望のままに言葉を綴る横顔がくっきりと浮かび上がり、私の小さな心臓は走り出します。そして、メールの通知マークが点灯すると勢いよくそれを汗ばむ指で弾くのでした。

淡い蕾が膨らみ出す春の頃、あなたのアカウントに鍵がかかりました。
守ったつもりでしょうか。何を守ったつもりでしょうか。ふたりの愛の巣を?誰から守ったつもりでしょうか。まさか私から?
私はとっくにその鍵部屋の中に居たのに?

私は取り分け、あのメールマークが好きでした。この世の裏側、鍵付きの部屋に届く手紙が大好きでした。閉鎖された二人だけの棲家で、あなたの言葉は事あるごとにチリチリとこの胸を焼きました。私は、他の女への愛の言葉を我が物顔で浴び、心底満たされて、いつしかアイコン女性の白ニットを自ら纏うようになりました。
あなたは度々、結婚生活や私への不満もちらつかせます。だからね、会おうよ、僕はもうあの家には帰りたくないんだ、というあなたの言葉に私の胸は一気に発火し、その熱にくらりとします。あなたの秘密が私を燃やし、その煙が私を酔わせていきます。困ったことに私の体はそれを麻薬のようにもっと欲してしまうのです。私は煽るように炎の芯に吐息という名の風を吹き込みます。いつにしますか、私も二人で会いたいです、と。

新緑薫る五月。
薄い封筒に『市役所』と見えたとき、私は頬が赤らむのを感じました。耳の縁が波打つのを認めました。他の女を抱くために軽々しく永遠の誓いを破り捨てようとするあなたのその指先に触れられたいと切に願うのでした。
窓の外の濃い緑など霞んでいました。この家には、あまりにも熱い炎と甘い煙が充満していました。

その次の朝、気温は一気に冷え込みました。曇天の下、新緑も鈍く翳っていました。私は薄暗いダイニングキッチンに足を踏み入れ、立ち止まりました。
食卓の上に、あの封筒が置いてあったのです。昨日、プラケースの中へ戻したーー黒い靴下やストライプのネクタイで元通りに覆ったーーあの封筒が、こんなにも露な姿で冷たい食卓の上に横たわっていました。

私たちは、静かに朝食をとりました。パンをかじり、フルーツヨーグルトをすくい、ホットコーヒーを飲みました。その二人の姿を、離婚届が無言で見ていました。

ーーー

まるでおもちゃさながらの小さな銀のスプーンで、いじくるようにヨーグルトを掬っている妻を、ヨウイチは静かに眺めた。その視線は柔らかく、妻の伏せたまつ毛を優しく撫でているかのようだ。
彼女はもちろんこの封筒の中身を知っていて、もちろんサインもするだろう、と彼は思う。震える指先で名前を縁どりながら、しかしその震えは哀しみや強張りからくるものではなく、興奮や高潮の余波だろう、と確信する。
クローゼットの左奥に色濃く残る気配の揺れや躍動に気づいたのは、だいぶ前だ。彼は試しに、処分するのも忘れていた大昔の元カノの写真を引っ張り出してきて、プラケースの奥に入れてみた。その晩帰宅してみると、彼女の気配は鮮やかに染まり、その体は色彩や微熱を尾びれのようにたなびかせていた。美しかった。
SNSに少しだけ自分の匂いを漂わせ、まんまと引っ掛かる可愛い妻を愛しく思った。小さな脳みそをフル回転させ、赤らんだり震えたりと、忙しく駆け回っている彼女が可愛くて仕方なかった。こんなにも彼を満たす女は他にいない。
彼はコーヒーを飲み干して席を立つ。

「これ。サインしといてくれる」

洗面所へと向かう彼の背に、そっと返事が寄り添った。

「はい」

微熱で発酵しふんわりと香り立った声で彼女は甘える。やはり彼女しかいない、彼を完全に満たせる存在は。
夫婦という枠組みを外し、離れてそれぞれに暮らし、別の顔と別の名前になりすまし、鍵のかかったあの青い部屋で逢瀬を交わす。
彼らは、一見遠くなったようで、一層深く絡まってゆく。こじれ、もつれ、ねじれして、二人は一人になっていく。偽りになったようで、真実に近づいてゆく。
それは二人にしか解らない方法で加速していくおままごと。行き着く先は、彼らもまだ知らない。






毎月7日、こちらの企画に参加させていただいております。今月のテーマは『ずっと前から知っていました』。
主催の七屋糸さんは、いつも唸るようなテーマを下さいます。
今回は、異常に見えて正常、トラジディーに見えてコメディー、のようなものを書いてみました。毎月挑戦するような感覚で愉しんでいます。いつもありがとうございます。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!