部外者であること
私はいつも馴染めない。クラスにも、部活にも、習い事にも。正確には、馴染む「努力をしない」。疲れるからだ。しかし、場に馴染まない人間は必ず浮く。そうなるとやはり居心地が悪い。私はその居心地の悪さを、ずっと抱えながら生きてきた。
そんな人生に、ある転機が訪れる。私は高校卒業後、海外の大学に進学した。そこで初めて、私は堂々と「私」でいられたのだ。
言葉も文化も、何もかもが違う土地。外国人は、周りの人々と同じレベルを要求されない。できないことが多くても許され、常識を強要されることはない。はなから期待されていない。
私は入学当初から自分のスタイルを貫くことで、「こういう人間なのだ」と認識され、かなり自由にさせてもらっていた。自分のスタイルというのは、例えば必要最低限のコミュニケーションしか取らないとか、他人と食事はしない、とか。こんな留学生も珍しかっただろうが、特段目をつけられることはなかった。
日本にいた時も、例えばクラス替えの直後とか、進学したタイミングでは、それなりに「馴染めた」。新しい環境で、それぞれ違う過去を持った人間が出会う。初めはお互い探りあっている。
しかしそこには「日本人としての常識」があり、さらに互いが親密になるにつれて、その空間には独自の常識が生まれる。そしてそれに少しでも適合できない人間は、はじかれる。
いっぽう国外では、現地人の間での常識はあれど、たとえそこから外れていようと、「外国人だから」咎められることはなかった。
しかし留学生活が二年目の中盤に差し掛かった頃、この生活に変化が訪れた。私の語学力が上達し、現地での生活に慣れるにつれて、現地人と同じ扱いを受けるようになったのだ。
もはや「外国人」という切り札を使えなくなった。母国の外で暮らす多くの人たちにとって、現地に馴染めるというのは喜ばしい事なのではないだろうか。しかし私は焦った。
現地に馴染むことによって、私は逆に浮いてしまった。いや、初めから浮いてはいたのだが、ついに彼らの目につくようになってしまった。居心地が悪い。
別の場所へ行きたい。誰も私のことを知らない土地へ移住したい。そうすればまた、私は私らしくいられる……。
私には、いろいろな国を転々として、常に「部外者」であり続けるのがいちばん楽なのかもしれない。拠り所がないのは寂しいけれど、それは同時に、何ものにも縛られず自由でいられることを意味するのだ。