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学ぶ目的

今日の言葉

二宮翁夜話より引用

142)富農の子弟の学問
翁のことばに、ある村の富農に、頭のよい子があった。それを江戸湯島の聖堂に入れて修行させようというので、父子同道でいとまごいに来た。私は心を尽してこれをさとしたものだ。何といったかというと、それは良いことではある。けれども、そなたの家は富農であって、田畑をたくさん持っているということだ。してみれば、農家としては尊い家株だ。 その家株を尊く思い、祖先の高恩をありがたく心得て、道を学んで近郷村々の人民を教え導いて、その土地を盛んにして国恩に報いようと、そういうつもりで修行に出るならばまことによろしいが、祖先伝来の家株を農家だからとて卑しんで、むずかしい字を覚えてただ世間に自慢しようという気持ならば、大きな間違いだろう。そもそも農家には農家の勤めがあり、富者には富者の勤めがある。農家たるものは、どんなに大きい家でも、農事をよく心得なければ役に立たない。富者は、どれほどの富者であっても、勤倹して余財を譲って、郷里を富まし、土地を美しくして国恩に報じなければ、役に立たない。この農家の道と富者の道とを勤めるために学問するのなら、まことによろしいけれども、もしそうでなくて、先祖の大恩を忘れて、農業はくだらぬ、農家は卑しいという気持で学問をしたならば、学問のためにますます本心がどこかへ行ってしまって、そなたの家が滅亡すること疑いない。今日の決心がそなたの家の存亡にかかわるのだ。うかつに聞くでない。私のいうことは決して違わないはずだ。そなたが一生学問をしても、このような道理を発明することは決してできまい。 また、このように教え戒めてくれる者も決してあるまい。聖堂に積んである万巻の書物よりも、私のこの一言の教訓のほうが尊いはずだ。私のことばを用いればそなたの家は安全だ。 用いなければそなたの家の滅亡は眼前にある。だから、用いるならばよし、用いないならば二度とふたたび私の家に来るではない。私はこの地の廃亡を復興するために来ているのだから、滅亡などということは聞くのも忌まわしい。決して来てはならぬ。と戒めたが、従うことができないで江戸に出てしまった。そうして、修行も途中なのに、田畑はみんな人手に渡って、ついにその子は医者になるし、親は手習師匠をして、今日をしのぐまでになったと聞いている。痛ましいではないか。世間にはこの類の心得違いが往々にある。私はその 時、口ずさみに「ぶんぶん(文々)と障子にあぶの飛ぶみれば明るき方へ迷うなりけり」とよんだことがあるが、痛ましいことではないか。

【引用 二宮翁夜話(上) 福住正兄:原著 佐々井典比古:訳注】

学ぶ目的

二宮金次郎は「農家は地元の発展のため、富者は国の発展のために学ぶべきだ」と述べ、良い学校への進学を勧めています。

この忠告を受けた親子は、子は医師となりましたが、親は田畑を失い寺子屋の教師となりました。

現代の視点では息子が医師になったことは良い結果と捉えられますが、家督や田畑を重視した当時の価値観では、望ましくない結果だったかもしれません。

このように、金次郎の考え方には現代に適さない面もあります。

しかし、彼が本質的に問いかけたのは「何のために学ぶのか」という点です。

金次郎は、家業や環境を軽視し、社会的地位や金銭のみを目的に学ぶことが、結果として財産喪失につながると警告しています。

現代に置き換えれば、低賃金や低地位の職業を軽視し、高い地位と給与のみを目的に学ぶと、最終的に財産を失う可能性があるということです。

学びの目的は、各自の夢や希望の実現であり、それが社会への貢献につながるべきです。学ぶことはその手段であるべきです。

しかし近年、学ぶこと自体が目的化し、大学進学が目的化する傾向があります。その結果、大学卒業後も自身の進路に迷う若者が増加しています。

方向性が定まらないため、収入や福利厚生、安定性のみを基準に職業を選択してしまいます。

しかし、そのような選択は仕事への満足度を低下させ、早期退職者の増加につながります。

目的意識を持って働く人材が育たないことは、国の衰退にもつながります。

退職代行サービスの出現も、このような時代背景が一因と考えられます。

この問題は若者だけでなく、学ぶ目的を適切に指導してこなかった、私たち大人たちの責任でもあります。

二宮金次郎の夜話142段「富農の子弟の学問」を読みそんなことを感じました。

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