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どの言語で考えているのか

先日 Easy German のPodcastを聞いていたら「どの言語で考えているか」というやりとりがあった。
答えていたのはポーランドからドイツに移り住んだ人。
「普段はドイツ語だけどひとりで考える時はポーランド語」という回答が興味深かった。

「人は母語で考える」「外国語で考えるようになったら一人前」のような話を時々聞くが、これまでの私は
「いや考える時は言葉は使わないんじゃないか。言葉で考えるとしたら、名前が存在していない新しいモノを思いつかないのではないか。画家、音楽家、数学者などは色や音符や数式で考えるのではないか」
などと言ってきた。

逆方向に振り切った考え方を置くことでポイントを明らかにしようと常日頃心がけているので、敢えてそういうことを言っているというのもあるのだけれども。

そうは言っても実際のところ、ひとりブレーンストーミングする時に絵や音符や数式を書いていったのでは考えはまとまらないので、やはり日本語で書いていくのだけれども、それは効率性追求ということかもしれない。

他方、今は英語環境にいるので、例えば英人と会話している時は英語で考えていると言えそうだ。
というのは、会話の時は英語でのアウトプットを前提とするから、英語でどう言うかを常に意識している。
とここまで書いて、それは英語で考えているのではなく「英語でどう言うか」を考えているのではないかとも考え始めた。
確かに。

言語にとらわれずにブンブン思考がベースのところで回っていて、その上で言語構造に引っ張られた部分が回っている。そんなイメージだろうか。

2004年だったか2005年だったか、フランス語のDALF の試験を受けたことがあって、その時の試験はテーマと資料を渡されて準備室で1時間準備してその後15分プレゼンというものだった。(2005年以前は今のDALF C1/DALF C2 という試験では無く、4つのパーツすべてに合格すると、DALF修了という形だった)
周りの人はフランス語で発言する内容を書き出しているように見えたけど、私は日本語で構成と内容を書いていた。忘れそうなキーワードなどはフランス語で書いた。

その時に感じたのは「実はイタリア語の試験です」とか「英語の試験です」とその場で言われても大丈夫。言いたいことは頭の中に整理された。それを英語であろうと仏語であろうと伊語であろうと、アウトプットする能力を自分は持っている。というナゾの自信であった。

思えばあの時が私の外国語能力のピークだった。

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