買い物たのC〜
『危機の時代に誰が誰を犠牲にするか知ったいま、私たちはもう、コロナ前の旧制度(アンシャン・レジーム)には戻れない。』藤原辰史
コロナで変わったことの一つに、オンラインでの買い物が増えたことがある。
普段は、買い物に行く店はある程度決まっている。店員さんの顔も大体覚えているし、例えば洋服なら、試着までの流れもある程度決まっている。どこで買うかの基準は、品揃えだけでなく、店の雰囲気や場所、混み具合、店員さんとの相性などで決めていた。店まで足を運ぶと、目当ての物が売り切れていたり、逆に、聞いたことのないブランドの服をいきなり買ったりしていた。つまり、運と感覚で買い物をしていた。
オンラインだと、買い物の基準が変わる。
好きな店のネットショップも見るけれど、行ったこともないショップでセールをしていれば、そこで買ってしまう。ブランド名で検索し、最安値で買う。
『ブランドはイメージで訴求して、店内では具体的な使い勝手や価格で財布を開かせていたが、すでに社会や環境に良ければ、多少高くても、不便でも、そして、自分で袋詰めするなどの本来は店舗スタッフがやるようなことさえ、協力参加したいと思う生活者はどんどん増えていく。「社会をよりよく変えていく」何か具体的なアクションを壁に掲げない店で買っても、それはものが手に入っただけです。』ナガオカケンメイ(D&DEPARTMENT)
オンラインショッピングだと、だだ「ものが手に入っただけ」になっていないか。ものを選ぶ基準が単純化し、金額のハードルを越えるだけであまりにも簡単に買えてしまってないか。買い物って本来、もっと難しいこと、心身ともに疲れることだったはずで、だからこそ買い物した後は達成感のような嬉しさを感じられたのではなかったか。モノが手に入った喜びだけでなく。
あの嬉しさはなんだったのか?
『人やモノがそこにあることによって、結果的に目に見えない価値を生みだしていた。という仕事がしたい。』宇南山加子(SyuRo)
そもそもの話。
買い物というのは、モノを手に入れるだけの行為ではない。モノの価値に共感し、それをつくったひとや企業の考え方に一票を投じる行為でもあるはずだ。
誰かを、違法な低賃金で長時間働かせて、つくられたものは買いたくない。環境を汚すことを気にせずつくったものは買いたくない。
暴力や破壊行為に加担したくない。
(とはいえ、ペットボトルの水を飲み、プラ容器のお弁当を食べているんですけどね。)
モノを買うという行為は、自らの思想を表明することだ。直感で選んだもの、何気なく買ったもののなかにも、それは含まれている。というか無意識の中にこそ、最も自分の考え方が現れる。例えば、ポリコレ意識の低いひとは、無意識に差別的な発言をするように。
だから、意識的にならなければいけない。自らの行動の結果、誰かを犠牲にしてはいないか、ということに。
『「お店を開ける事が出来ないから、オンラインストアで。」という流れに対して、疑問を感じてしまったこと。
お客様から注文が入った場合は、誰がどこで梱包作業をするのだろう。誰が運んで、誰が受け渡しをするのだろう。自分たちの身は守りながら、そこに携わる人たちが犠牲になる方法は本当に正しいのだろうか。
僕らはオンラインで買い物をする行為に対して決して否定的な訳ではありません。が、今は公開するタイミングでは無いかもなあ。』河上 尚哉(MANHOLE)
『サービスとはつまり、手間という手間をひたすら金で買い続けるしかない代行システムのことなのだ。』鹿子裕文
私たちは、お金を使ってラクをすることができる。手間を省くことができる。お金を使うことで、手間を他者に押し付けることができる。
ひとりで生きているひとなんかいなくて、みんな誰かに依りかかって生きている。自分が豊かな暮らしができるのは、自分の働きが良いからではない。何万ものひとが、見えないところで働いているからだ。彼らに支えられて生きている。だから、自分がラクをするときは、最低限そのことに意識的でなければならない。
『底辺で働いているひとが、割りを食っているのがいまの社会じゃないですか。本当に深夜でも、一生懸命働いてますよ。倉庫だろうが、工場だろうが。
日本という国は、底辺が強いから、こんなにみんなが豊かな生活ができるんだとおもいますよ。』三井よしふみ
『いろんなことが、便利という言い方で、合理化されていく。もしかしたら不便と言いがかりをつけられたものの中にこそ、正しいことがあるのかもしれないのに。』ナガオカケンメイ
不便なことは、悪いことなのか?
ラクをすることが、正しいことなのか?
一見ムダと思えることを、わざわざやることに、実は大切なことが含まれているのではないか。
歩く速度が遅ければ遅いほど多くの発見がある。
苦労して一つのモノを買うことは、とても豊かな行為であるはずだ。
朝起きて、身支度を済ませ、ちゃんとした服を着て、電車を乗り継ぎ、緊張して店に入り、店員さんと会話をし、買ったモノを手に持って家まで帰る。その全ての行為はモノに対する敬意となる。モノを大切にすることにつながる。そしてそれは、ひとに敬意を払うことと同義である。
重さを感じながら、家まで持って帰る。それは、噛みごたえのあるパンほどおいしいのと似てる。
『 プラスティックを土に挿すのが嫌なので、竹でトマト、スイカ、メロンの棚を作ることにした。それなら網も麻紐で編んじゃおうと思って、作業していると、ヒダカさんが「器用だなあ、面倒臭くないんかい、百姓だけじゃなくて、漁師もできるぞ」と言った。セーターを自分で編むようになってから、面倒臭いという考え方が一切なくなった。だから畑もはじめられたんだと思う。昔はこうではなかったから。』坂口恭平
面倒臭い、それはわかる。
わかりすぎるほど、わかるわかるわかるわかる。
でも、たまには、面倒なことをしよう。
(自分に言っています。)
時間がかかってもいい。効率なんか悪くていい。面倒なことをしよう。
それが、楽しさに繋がっている。
それが、創造するということだ。
誰かを幸福にすることができるかもしれない。
いったん動き出せば、もう重さは感じない。
◎最近のてってさん
乗り換え駅の蛍光灯に、ツバメが巣を作っていました。よく聞く話ですが、実際にみたのは初めてかも。ちょうど、親鳥がエサを持って帰ってきたところで、ヒナたちが鳴いていました。僕は、冷やしきつね蕎麦を買って帰りました。
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