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カーナビのテレビで氷川きよしを観た

すごくきれいだった。
活きいきとしていた。

彼(でいいのかな?)の昨年末の紅白におけるパフォーマンスがすばらしかったことを思い出した。衣装や歌で、性別を2つに分ける番組コンセプトに対し違和感を示していた。

『どうしても人間って、カテゴライズしたり、当てはめよう、当てはめようって、人と比べたりする傾向があると思うんですけど、そこの中でやっていくのはすごく苦しいです。』氷川きよし(「スポーツ報知」芸能人コラム/中村健吾記者インタビュー)

弘中綾香アナがはじめてラジオパーソナリティを担当したときのメール募集のテーマが「女のくせに/男なのに、と言われたこと。」人気のアナウンサーが世間のジェンダー認識に問題提起をしていた。

勝手に他人をカテゴライズし、その範囲から外れた振るまいをすれば非難する。僕は(身体的性、性自認は)男なので、「男らしくないよ。」「男に二言はないでしょう。」「そんなのは女のすることだ。(←女性にも失礼。)」と言われたことがある。
いや、あなたの基準で判断しないで下さい。あなたの理想の男性像にハマりたいとは思ってないので。

ひとをジャンルで分ける、ラベルを貼ってわかりやすくする。すごく失礼な行為だ。ひとは無数の要素でできている、一人ひとり違う人間だ。何も知らないくせに、勝手に決めつけるな。

そして、他者に対する態度は、自分自身にも向けられる。ひとを安易にカテゴライズする行為は、自分自身をも枠にはめてしまう。

『ずっと、イメージ付けされてきた部分があったから、今までイメージされていた氷川きよしというイメージをぶち壊したいという気持ちがあった。(中略) そのために今年初めから自分の中で決意していて。本当の自分を表現しよう。ありのままの自分を表現しようって。もっと、自分の中に持っているもの、自分の才能、持っているものを、もっと生かせたらいいなって。全部、表現しようと決めたんです。』同上

自分にはめられた枠を外すこと。それはとても勇気のいることだと思う。

いままでたくさん悩んできたひと、考えてきたひとは、自分が本心から思っていることを言うと周りから嫌われることを知っている。周りの人は本当のことを言われると、自らの無知が明らかになる、もしくは自分自身に対して言い聞かせてきたことが、ごまかしだったと気づく。だから、余計なことを言うなと怒鳴る、威圧する。
一度でもそんな目に遭うと、たとえ本当のことを知っていても周囲との調和を保つために口をつぐむ。社会に自分を合わせようとする。でもそれはとてもストレスがかかることだ。本当に思っていることを喋りたい。自分を押し殺さずに生きたい。

だからこそ紅白をみて、彼(彼女)のパフォーマンスに惹かれた。勇気をもらえた。

「わたしはロランス」という映画でとても感動したシーンがあって、大学教員のロランスが(身体的性は男性のトランスジェンダー、なのかな?)、初めて女性の服装をして教室に入る。全員が静まりかえるなか、一人の学生が言う。「あの、先週の講義でわからないところがあったんですけど。」

相手の性がなんだろうと、性に限らずどんなことでも、他者をカテゴライズせず、個人として、「個」として尊重すること。服装がかわっただけの教師に対して、普段通り接した学生のように。

就活なんて、学生のころからオワコンだと思っていたけど、

『個々人の枠組みを、窮屈にさせないでくださいと思う。(中略)人間的な魅力や可能性が備蓄されるのは「抽象的」のほうである。(中略)単線で行き着いたゴール地点を最良のものであると決断する潔さは、実際には、社会への適応性に欠けるのではないか。しかし、そもそも人間は必ずしも、社会や会社に適応する必要なんてないのだから、エースで4番でも、ひたすらベンチで控えでも、PRすべき状態として持ち出せるはず。あなたという人間を規定しなさい、コンパクトにまとめた「コード」をこっちに寄越しなさい、と要請され続ける中で、私が考える私っぽい感じを提出し、これがコイツっぽい感じなんだろうなと、アイツが判別するだけである。なんと無駄なのだろう。人間を規定する行為なんてものは、このようにして、不可能なものを可能っぽく見せているだけなのではないか。」武田砂鉄

私を規定しないでください。私の未知な部分を勝手な妄想で埋めないでください。勝手な妄想で僕のストーリーをつくり、そのストーリーを非難するという意味不明な行為をやめてください。本人の好きなようにさせてください。個人として尊重してください。

でも、この国は「個人」をなくそうとしている。

『日本国憲法の第13条では「全て国民は、個人として尊重される」と謳われているが、改正草案では「すべて国民は、人として尊重される」となっており、「個」の一文字が削除されている。個人とは「individual」の訳語で、「devide(分ける)」に否定の接頭辞「in」がついたもの、すなわち「それ以上分けられない社会の最小単位」を表す言葉だ。私たちは個人として生まれながらに様々な権利(=基本的人権)を有し、誰もこれを侵してはならないというのが憲法の基本理念なのだが、ここから「個」がはぎ取られているのは決して些細なことではなく、むしろとてつもなく大きな変化に感じる。』清田隆之

自民党は、家族を一つの単位にしたいみたいで、10万円の給付の仕方をみても、世帯主に一括給付だったし。吐き気がするね。

絶対に、誰にも侵されたくない。
自分は独立したひとりの人間だ。だれかといっしょにまとめるな。

教養のない大人ばかりのこの国で、そんな大人たちに対し徹底的に抗い続ける。

個人を尊重する。他者の考えを受け入れる。自分の価値観を絶対だと思わない。自分と異なる考えを否定しない。ディランが歌っている、「キミにとってはキミが正しい。僕にとっては僕が正しい。」

自分の考えが、世界で唯一の絶対的な正解だと思っているひとへ。あなたの知っている世界はそんなに広くないですよ。あなたには、知らないことがたくさんある。どうぞ、ディランを聴いてください。氷川きよしを聴いてください。彼らはとても魅力的で、真実をうたっているのだから。


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