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実録・熊本地震のこと

(※この投稿は以前やっていたブログの記事を一部加筆し移行したものです)


2016年4/14及び16日、熊本と大分付近で起きた大規模な地震のことを以前やっていたブログに書いていたんだけど、そのブログを閉鎖したのでこちらに移行して残すことにした。あの時体験したことを思い出すために。興味のある方は読んでみてください。

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前震と呼ばれる14日の地震が起こったのは午後21時頃。いつものように家のソファに寝ころんでスマホをいじっていた俺。最大震度7が観測された揺れだったそうだが、その予兆的なものはなかったと記憶してる。時間にして4.5分だったような、とにかく今まで経験したことのない揺れが収まると、ちょうどお風呂に入っていた妻が動揺して裸で飛びだしてきた。そして7歳になる娘は、だれに教わったのか知らないが自主的に机の下に隠れていて無事だった。

俺たち家族が住んでるのは築40年以上経ったオンボロアパートで、同じアパートの別の部屋には80歳になる俺の母親が一人で暮らしているのだが、どうやら我々が住む2階に比べて揺れはひどくなかったようで、母親の部屋は特に乱れた様子もなく、母自身も何事もなかったのだった。

次の日仕事場には電話がジャンジャン鳴ることとなった。というのは俺の職場はプロパンガスの販売店だからだ。特に多かったのはガスメーターが感震機能で遮断しガスが使えない、そして高さ160センチほどの50キロボンベが倒れている、という問い合わせだった。ボンベにはこうした地震に備えチェーンを巻いているのだが、壁にビスで止めてあるチェーンの金具がボンベが揺れたために引っこ抜かれ、たまらずボンベごと倒れてしまったのだ。

その日は終日そうしたお客さんへの対応に追われた。しかしその時は、2日後に再びドデカイ地震がくるなどとは露ほども思っていなかった…

 

いや、実際はニュースなどで『今後も大きな地震に気を付けて』と散々言われていたし、震度3~4程度の揺れはこれでもか、というくらい来ていた。しかし嫌な予兆はなるべく否定したい、というのが人の性、『もうあんなに酷いやつは来ないだろう』と思ってた…つうか思いたかった。

16日に起こった本震は、夜中の1時。家族とは別の部屋で独りで寝ていた俺はその前回よりも激しさを増した揺れに『あ、マジでヤバイ…』と恐怖を感じながら必死で揺れが収まるのを待った。正直生きた心地はしなかった。

停電も起こった。俺の住む地域は30分ほどだったと思う。暗がりの中、家族のいる部屋に行くと、今度は食器棚の中の食器がいくつか飛び出し割れたりして若干危険な状態だった。この時は、堪らず取りあえず車に必要だと思われる物を詰め込み、近くの公民館に家族全員で駆け込んだ。

公民館には、すでに3.40人くらい避難している方々がいた。その中には娘の同級生の子もいたので、子どもたちはこの緊急事態でも嬉々としてゲームなどをして遊んでいた。顔見知りの親御さんと情報を交換したりして、その日は公民館近くに車を停めその中で寝たのだった。

朝になり会社に行くと、駐車場のアスファルトにビリビリとひびが入り、なおかつ建物と地面の間に5センチほどの隙間が出来てて、いかに揺れが大きかったのかと愕然とした。2階にある事務所はメチャクチャ。会社の周りの道は凸凹になり、なかには陥没してる箇所もあり。瓦が割れ階下に落ちている。塀が倒壊し足の踏み場がなくなってる。古い家屋の壁が崩落し危険な状態になっている、などなど…。14日の地震で弱ったところにとどめを刺されたかのごとく、信じられない光景が広がっていた。

(※↑これらの写真は地震発生から4か月ほど後、震源地だった益城周辺で撮ったもの)


熊本城の石垣などがズタボロに崩れ落ちた、阿蘇大橋が、健軍のスーパーが倒壊したなど俄かには信じられないニュースも耳に入ってきた。あぁ、ほんとにとんでもないことが起こってしまったんだなぁ、と痛感せずにはいられなかった。

お客さんからの連絡も増え続け、その対応に必死に追われ、いつの間にか夕方。こなせなかった対応は明日以降に回そう、とにかく家に戻り休息しよう、ということで帰宅したはいいものの、当然落ち着けるわけもなく、その日も家族は公民館へ避難。その上俺は前日慣れない車中泊したおかげで風邪気味になってしまい、あまりにしんどいので家で寝ることに。

ちなみにこの時点では熊本市内一円ほぼ全ての地域で断水していたのだが、貯水タンクを使ってる我がアパートではまだ水が出ていた。しかし結局数日後にはそのタンクも底をつき、水が止まってしまったのだが。

妻は、山際に建つ我がアパートが土砂崩れの影響を受けるのでは?と不安がり、子どもを連れて自分の実家である鹿児島に避難していった。それから10日ほどは俺と母の二人で生活をした。普段母は、冷凍庫にたんまりと食材を保管していたので、スーパーが閉まっていて生鮮品が手に入らない中でも、ある程度の食事を作ることができたのだが、とにかく水が出ないので洗濯とお風呂が困ることとなった。

洗濯は車で15分ほど離れたところにあるコインランドリーが開いてて助かった。ここは地下水を使っていたので地震で水道がストップしても稼働できる、とのことだった。普段は誰もいないのだが、このときは経営してる方なのか知らないが女性の方がつきっきりで来た人に順番を示す番号札を渡し、なおかつ待ち時間が2時間以上になるので、順番が来たら携帯に電話してくれる、というサービスまでしてくれていた。これはほんとに助かった。

お風呂は近所の温泉施設を覗いたら人が溢れかえっていたので、車で1時間くらい離れた場所にある浴場に母と通った。当然そこでも待つことにはなったのだが、近所よりかは幾分すんなり入場することができた。

そういえば俺がツイッターで『水が出ない』と呟いたところ、随分連絡を取ってなかった友人が『自分ちは水が出てお湯も使えるので、いつでも来てください』と連絡してくれた。母がいて自分ひとりで行くわけにもいかなかったので、その好意に甘えることはできなかったのだが、ほんとに嬉しかった。


…しかし世の中にはそうした善意の人もいれば、とんでもない輩もいまして。とある温泉施設に行った時のこと。人でごったがえす浴場でそそくさと体を洗い、湯船につかり、さて出ようかを思ったその時、ロッカーキーを洗い場に置き忘れたことに気づき急いで戻ったが見当たらない!で、そのロッカーに戻ってみるとキーが刺さっている!中を確かめると財布から札だけ抜き取られていて、思わず泣きたくなったよ…警察に連絡をし被害届も作成したのだが、結局今に至るまで何の音沙汰もないのだった。

断水から数日後、そろそろ浴槽に貯めていた水も底をつきそうになりヤバいな、と思ってた頃、関西方面から来てくれた給水車からビニール袋に入った水を貰えたことで、なんとかやり過ごしながら、断水から2週間ほどでやっと復旧し通常の生活に戻ることができた。月並みではあるけど、水の大切さをこれほど痛感したことはなかったな。

今でも避難所での生活を余儀なくされている方々がいる中で、とりあえず住んでいる家が倒壊を免れたのは幸運としか言いようがない。とはいえ、これを書いてる現在も余震は断続的に続いているので、また大きい地震が来るのでは?という不安は常につきまとっている。結局のところ、この日本において、こうした大規模な地震が起こる可能性が0な場所などどこにもないのだ。1995年の阪神淡路大震災、そして2011年の東北地震をなんだかんだいっても他人事として感じていた自分が今はほんとに呑気であったな、と思う。

Facebookやメールで安否を気遣ってくれた、東京と福岡で暮らしてた時に知り合った友人たちにも心からありがとうと言いたい。ほんとに励みになったから。まぁしかし、なにはともあれ生きててよかった。そんな気持ちでいっぱいだ。


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(追記2018.12/9)

さてあの大地震から2年以上経ったのだが、現在はあのとき倒壊した家屋の新築が続いていて、その対応に追われている。我が家は無事だったので相変わらず同じところに住んでいる。母はずいぶん弱ってきていて、要介護の申請を出している途中だ。もし今、地震に見舞われていたらなかなかたいへんだったろうな、と思う。

特に被害が酷かった益城・阿蘇・健軍そして御船周辺には今も仮設住宅が存在している。かなり復興が進んだ市内に住んでいると、なかなか感じ難いのだが、やはり震災の影響は依然続いているのだ。

そしてあの頃あまり友達がいなかった娘は、最近じゃ近所に仲良しが数人できて休み毎に遊びに行っている。地震のときもそれなりに楽しそうだったが今なら学校も休みになるし、よりエンジョイしていたのかもしれない。

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