第3話 取り戻した空

 始まりの場所はカナダのバンクーバーにした。
 僕に限らず旅のスタート地点に北米を選ぶ自転車旅行者は多くて、その理由には旅のしやすい英語圏で、まだ身の安全が保障される先進国だということが挙げられるだろう。そして、夏に北米を出発して順調に南下をしていくと、南米に辿り着く頃にはちょうど南半球の夏を迎えることができる。気温も低く、日も短い冬を避けて、ずっと夏を追いかけていける、このイージーさが北米を出発点に選ぶ理由でもあるだろう。
 飛行機は滞り無くバンクーバー国際空港に到着した。預けた荷物がロストバゲージするということもなかった。まずは順調な出だしだ。
 空港の外で自転車を組み立てて、市内に向かって走り出す。初めてフル装備自転車に跨ったあの時のような絶望的なペダルの重さは感じなかった。むしろスイスイ回るほどに軽い。なんだかあっという間に世界一周さえできそうな気分だ。
 柔らかい日差しが木漏れ日となって注ぐバンクーバーは、旅の一日目に相応しい好天に恵まれた。雨が多い街と聞いていたのがウソみたいだ。緑が目に映える海沿いの公園では、寝そべったり、読書をしたり、それぞれ思い思いの時間を過ごしている。なんといっても、あちこちで見かけるメープルリーフの模様や絵柄は、この近代都市が他でもないカナダの街なのだということを静かに示している。街中に張り巡らせられた架線を伝うブルーのトラムと並走しながら、僕は軽やかにダウンタウンを目指した。
「あぁ!ついに僕はこの旅の空に帰ってきたんだ!」
 旅の続きができる喜びを噛み締めつつ、僕はあの旅の翌年に起こった出来事を思い出していた。

 低く灰色にくすんだ天井を見ていた。
 社会人一年目の夏だった。僕はクローン病と診断され、入院生活を送っていた。
 この病気は簡単に言えば、口からお尻までの消化器官がただれて潰瘍ができ病気で、猛烈な腹痛や、日に数十回の下痢、衰弱からくる発熱などを伴う。
 そのため日常生活を普通に送る事すら困難になってしまう病気なのだが、最もやっかいなところは、発病の原因が分からないところにある。遺伝性やストレス性、食生活によるとも言われているが、詳しいことははっきりとしていなくて、難病の一つに指定されている。現代の医療では、完治はできず、比較的良い状態に体の調子を保つことに主眼が置かれている。
 しかし当時の僕は、自分がそんな病気になっているとはつゆ知らずで、 「なんだか少し体調が悪いなぁ」、そんなところから症状が進行していった。
 まず初めに口中に口内炎が出来て、食べ物を飲み込むことが困難になり、そして腹痛と下痢、発熱が始まった。
 周囲の人間は僕を気遣ってくれて、病院に行ってしばらく休むことを提案してくれた。
 それでも僕は、「一年目の新人が体調不良なんかで休むわけにはいかないのだ」と無理に仕事を続けていたのだが、やがて高熱が下がらなくなった。一日中悪寒が続き、セミの声が鳴り渡る夏の日に真冬の格好をして仕事をしていた。
「これは自分の気合いが足りないからに違いない」
 ナゾの精神論をどこかから引っ張り出した僕は、仕事の帰りにラーメン屋に寄ってニンニクを大盛りにして食べた。すると、一瞬体がカッとなって元気になった気がしたけれど、夜中に激烈な腹痛に襲われた。それならばと翌日はさらに山盛りにしてニンニクを摂取して、さらなる腹痛に苦しんでいたのだから我ながらバカ過ぎる。
 家と職場の往復というよりもトイレと職場の往復が一カ月ほど続いた頃、熱が四十一度に達するようになり、いよいよ耐え兼ねて病院に行くことになった。
 何軒かの病院にかかるも、どこからも「何の病気か分からない」と言われてしまい、最後に国立の病院で検査を受けると、クローン病の疑いがあるとのことで入院することになったのだった。

 入院生活はこれまでの人生で最もつらい日々だった。
 僕の主治医は嵐の松本潤に似た男前だったのだが、ほとんど表情を崩さないサイボーグのような男で、冷酷に検査に次ぐ検査を僕に課していった。
特にきつかったのが大腸検査だ。ケツから管上のカメラを突っ込んで大腸内を撮影していくのだが、病気で傷んだ腸内を管が通っていくのだから、とにかく悶絶するようなツラさだった。それでも松潤はぐいぐいとカメラをケツに押し込んでくる。
「ぐああぁ!」
 あまりの痛みに松潤につき出したケツが引っ込みそうになる。そんな僕を研修医と思われる若手の女医が押さえにかかる。なんという恥辱だ。
「エラかったですね」
 検査が終わって松潤は無表情に僕に言った。
 エラいは病院のある名古屋の方言で“大変”を意味し、この場合は大変でしたねという意味になのだが、まだこっちに来て数カ月だった僕には、大人が子供に向かって「エライねぇ、よくできましたねー」とあやすような響きに感じ、「オレは注射を我慢した幼稚園児か!」と叫びたくなった。
 またある時は、両肘の関節部に太い針を刺し、右腕から血を抜いて、特殊な機械で処理をした血を左腕から戻すという治療を受けたが、副作用なのか腰の神経がちぎれるかと思うくらいの激痛が走った。しかし肘の関節に針が刺さっているので体を動かして悶えることもできない。
「ぐぉぉぉ」
 痛みに耐えかねた僕が腕を曲げてしまうことを恐れた技師が、僕に覆いかぶさるように体を預け、押さえつけた。技師はいい年をしたおっさんである。このまま治療が終わるまで一時間、鼻先におっさんの吐息を受けながら抱かれ続けた。女医はいなかったが、これはこれで凄まじい恥辱であった。

 検査以上につらかったことが、入院生活で唯一の楽しみといってもいい食事を禁止されたことだ。
 消化器を休めるためということで、僕は胸に管を刺され、そこから四六時中流れ込んでくる点滴が食事の代わりとなった。ポタリ、ポタリとスタンドにぶら下がったプラスチックバッグからたれ落ちる液体をひがな眺める日が続いた。
 通路側に面した部屋だったから、点滴を眺める以外はベッドに横になって天井を見つめるほかなかった。昔はもっと白かっただろうと思われる灰色の天井、こびりついた染み、気の遠くなるような長い一日。
 病気はなってみてそのツラさが初めて分かるというけれど、まさにこのツラさはこれまでの人生で味わったことのないものだった。
 体重は二日でちょうど五〇〇グラムずつ減っていき、六〇キロあった体重は四二キロまで落ちた。この頃には手すりを使わなければ、階段を上ることも困難になっていて、いよいよベッドから起きる気力も体力もなくなっていた。
「一年前からは想像もつかなかったな…」
 低くて狭いくせに、やけに遠く感じる天井を眺めながら、僕はぼんやりと一年前の旅を思い返していたりした。もう僕はあの空の下に戻ることも自転車を漕ぐこともできないのだろうか。奈落の底は案外天井が見えるほどの深さだったけれど、そこから天井までの距離が果てしなく遠い。気が付くとぽろぽろと涙がこぼれていた。

 それから合計三カ月の入院と絶食生活が過ぎ、病気の症状がだいぶ落ち着いたこともあって、退院を許可された。
 病院を出たその足で向かった定食屋の豚しゃぶ定食ほど食う喜びにあふれた一皿はなかった。お代わりを六杯もした程だ。胃袋はとっくに満腹になっていたが、食べ物が喉を通るその感覚が嬉しくて、ひたすら箸を動かした。
 そして職場にも復帰し、これまでの遅れを取り戻すように仕事をした。
 時折、やはり病気の症状がぶり返すこともあったけれど、薬を飲むことで以前のように悪化することはなく、病状はある程度コントロールできるようになっていた。
 その薬はステロイドだった。ステロイドは様々な病気によく利く薬だったが、その反面副作用が強い薬だった。骨がもろくなったり、毛が抜け落ちたり、ときにはショック作用もあり、死に至る場合もあった。
 だから主治医の松潤も当初はステロイドを使わない治療を目指していたのだが、僕の病状が一向に良くならなかったために、苦渋の決断でステロイド治療を始めたのだった。
 ステロイドは依存性の強い薬でもあり、なかなか止めることが難しい薬でもあった。だから病状は良好だったとしても、薬漬けの毎日というのはあまり気分のよいものではなかった。ステロイドと、その他副作用を抑える薬を合わせると一日に二〇錠も薬を飲んでいたのだ。
 退院してからの通院では、ステロイドから脱却できる新しい治療や新薬を色々試しのだが、結局ステロイドに代わる有用な治療法は見つからなかった。
「死ぬまで薬漬けなのかなぁ」
 僕の病状は幸いにしてそれなりに良い状態を保っているし、日常の食事も問題ないくらいに回復している。それだけで感謝しなくてはいけないのかもしれない。でも…
「もうあの広い空を見ることは出来ないのだろうか」
 病院で自分が呼ばれるまでの待ち時間の間、やっぱり僕はいつもあの時の旅を思い返していた。

 そうやって旅の前後を思い出していたら、ふとしたことに気が付いた。
 そういえばアメリカ自転車旅に出かける直前も、僕は喉の奥や口に出来た炎症で苦しんでいたんだった。あれはもしかしたらあの時すでにクローン病の初期症状が始まっていたのかもしれない。
 あれっ。でもそうだ、いざアメリカに行ってみたら、その炎症がぴたりと止んで旅中は全く体に異変を感じることはなかったんだった。
 食う寝る走る、あのシンプルな生活が体に良い影響を与えているとしたら…
「これだ!」
 光明が見えたような気がした。
 僕の病気は完治のための治療法がない。だから僕はそれを病院の近くにいて薬漬けの毎日を送る事と結び付けていたけれど、もしかしたら旅をして開放的な日々を送ることが、誰も試したことのないこの病気との新しい付き合い方、治療法になる可能性だってあるんじゃないか。
 いや、それはあのアメリカ自転車旅でもう既に実証済みじゃないか!刺激に溢れた旅をして、そして病気も良くなって薬から解放される。
 一石が二鳥にも三鳥にもなるじゃないか。アメリカ横断を達成した後、もっと色々な世界を自分の足で訪ねてみたいと思ったあの渇望を諦める必要なんてなかったのだ!
 難病持ちが世界を自転車で旅をする。
 この話をすると周囲からは大いに心配された。僕の弱り切った姿を見ているのだから当然だろう。もちろん僕自身も不安はある。アンデス山脈の山の中で、アフリカのサバンナで、もし病気が悪化したらと思うとぞっとする。
 しかし、それは決して無謀な賭けには思えなかった。旅のことを考えていると不思議と病気の症状が治まっている自分がいるのだ。だから僕には不安よりも希望の方が大きく見えた。それはアメリカを横断しようと決めた時と同じような期待感だ。この病気は治らないもの、そんな既成概念を打ち破ることができたらどんなに痛快なことか。
 世界中を自分の足で訪ねて、世界中に散らばる生きる力に触れ、手に入れる旅に出かけるのだ。
 もう落ちるところまで落ちた。あとはもう上るだけだ。あの高くて広い空を取り戻しに、さぁサドルに跨るんだ。

 こうして僕は二〇一一年六月に世界一周の第一歩を踏み出したのだった。
空港から二〇キロほど走り、大きな橋を渡るとダウンタウンに差し掛かった。緩い坂を下っていくと、清々しい風が全身を撫でる。吸い込む空気がいちいちうまい。前方に見えてきた近代的なビル群があちこちで背比べをしている。僕が取り戻したかった広くて高い空に向かって。それは爽やかに晴れ渡った初夏の青空だった。

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