没頭することで逃げないように

引き続き整えることなく日々を過ごしており、湧き上がる自己嫌悪の気持ちに対峙して時間を過ごしてたりする。あえて自己嫌悪をすることでむしろ、他者からの攻撃を喰らっても大丈夫なように事前に保険かけてんじゃないのかと思うようなフシすらあるなと思うくらいの自己嫌悪。

こういうのをノートに書くのは好きじゃないが、それは、心配させたくないという気持ちが先に走って、いつも元気で明るい自分を示しておけば、余計な心配をかけることなく、誰も自分の本当のことを知ることなく過ごしてくれるからだと考えていることを、僕はよく知っている。


反省してるっつって、反省してるふりをしてきたなと思う。それはかなり、多くの人に見抜かれてきた自覚があり、それを許してくれる人が周りにいてくれる人だし、見抜いて呆れた人が離れていったという、そういうことだ。


痛烈な反省があるとき、僕なりの逃げ方は2つある。


没頭して逃げること。何かに考えられないくらいに集中してしまうことで、その問題に向き合うことを逃げ、あたかもその問題がなくなったようにして自分までも偽ってしまう。いつか誰もが忘れてしまうまで逃げていく。

悟ったふりをすること。その問題を悟りの観点から俯瞰して分析し、頭でうまく処理してしまうことだってできてしまう。事実として、とても上手に自分も他人も偽ることができて、向き合わずに生ききることも可能だと思う。


でも、それはもうやめようって決めた。


ちゃんと自己嫌悪から目を背けずに、必要な苦しさを味わってこなかったから、問題を解決することなく、逸らすことでなんとかなってきてしまった。それを今回向き合おうって決めたんだろうが、と自分に言い聞かせている。


見た目は普通にしているが、いまとても苦しんでいる。


乗り越えるために苦しまなければいけないとは思っていたけど、こういうことを全部うまくごまかしてきたのかと思って、指摘をもらうたびにすぐ対応している。その指摘はありがたいものなのに、ちょっと情けなくて、泣けるような、もう投げ出したくなるような、追い込まれ方をしている気がする。


でも、誰も追い込んではいない。その指摘で追い込まれるような生き方をしてきた自分が、勝手に自分を追い込んでいるだけだ。

いいよ、ちゃんと向き合うって決めたんだから。情けなくてもやるってことを、いまやってみたら、本当に情けなかっただけの話。驚くことじゃない。


内面をこうして、公開してさらけ出すというのもなかなかだ。でもそういうことを出していくからこそ、人は自分に対して素直に言葉を伝えてくれるんだろうと思うし、そんな期待があったから素直に言葉をくれたんだと思う。


ばか、間違ってもふてくされるなよ。
こういうこと、喜んでやっちゃおうぜ。

急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。