漫才の大衆化とブランド化について

「やすとものいたって真剣です」の2月8日放送回で、NON STYLEの石田さんとカペポスターの永見さんとの対談が放映された。

その中で石田さんが将来目指すところについて「漫才を安く観れる世界にしたい」といったような趣旨の話をされていた。漫才が高尚なものになっているから、もっと身近にしたい、ということだ。それを受けてスタジオでも様々な意見があった。

この「大衆化」と「ブランド化」について、徒然なるままに書いていきたい。
もちろん、特に正解はないと思うので、考えたことをただただ羅列しているだけだ。


さて、この話題はマーケティングの観点で言う「ブランディング」だ。

その商品やサービスに対してエンドユーザーがどのようなイメージを持つか?という重要な戦略の一つである。

ファストフードであれば安さや手軽さを想起させるし、高級料理店であれば店の雰囲気や材料の希少さなどを押し出す。
当然、価格もそのイメージに合ったものにするし、広告にもブランドイメージを反映させたものを打っていく。

商品やサービスであれば、ブランディングは考えやすいが、殊芸能となると話は別だ。

エンドユーザー目線でいうと、芸能は娯楽だ。
娯楽は娯楽ゆえに、気楽に楽しめるものである必要がある。翻って演者目線で言えば、職人としての技能が必要だ。これは少々矛盾がうまれる。

つまりは職人技であるという、"高尚な部分"がありながら、エンドユーザー目線ではそれを感じさせない"俗な部分"もあり、これらが共存している点が面白い。高尚さと俗のバランスが、その芸能におけるブランドイメージになる訳だ。


では、漫才はどうなのか?

結論からいうと、今はブームの段階なので、お互いの距離感がバグって高尚になりすぎているのだと思う。だがおそらく、時間が解決するのではないかと思っている。

作り手目線で言うと、どんなブランディングをしようとしているのか?
分かりやすくは賞レースだろうか。特にM-1グランプリやTHE SECONDはそうだが、芸人の裏側や人生をスパイスにしている。
「こんな苦労をして、こんなことを考えて今までやってきた。この努力が報われることを信じて頑張っている」というメッセージが見える。
これがフリになり、エンターテインメントが生まれる。
戦い、順位がつけられることによりカタルシスが増幅するシステムだ。

作り手はカタルシスが最大化されたエンターテイメントを作る必要があるから「芸人の格好良さ」=「高尚さ」を使っている。

だからハイブランドとしての発信になるので高尚さに軸足を置いている。(置かざるを得ない、そうした方がメイクマネーできるということ)

そして、観る人(エンドユーザー)はそんなメッセージが込められてパッケージ化されたものを受け取っているので、芸人さんカッコいい!となる。そういった声が大きくなるので、新規のファンが増える。
新規のファンが増えればメイクマネーできる...といった循環だ。

なので、今の状況は俯瞰して見れば自明の理なのかもしれない。

そして、時間が解決するという「時間」とは、「エンドユーザーが目を覚ます時間」のことを指す。

ユーザーはたくさん刺激を与えすぎると、飽きるか疲弊してしまう。(だから供給側は手を変え品を変えマーケティングをするのだ)
そして目を覚ます。

「こんなのずっと追ってなくて大丈夫。娯楽なんだからもっと気楽に観よう」

これがブームの終焉だ。メイクマネーしにくくなる。供給側としては面白くない。

ただ、いい意味としてとらえると無理して普及させなくて良くなる(文化として根付いている)ので、やり方によっては少ないリソースである程度の結果を導くことができるようになるはずだ。

そして、文化としてまだ根付いていない世代が出てきて、またブームがやってくる。これの繰り返しだ。

なので、今はちょうど良い距離感を探るための過渡期であると思う。

オタクである自分も、時には分析し、時には何も考えず楽しみ、自分の心地よい距離感で謳歌したいものだ。

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