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2021年12月19日 直方バプテストキリスト教会クリスマス礼拝メッセージ「太陽に背を向けると暗くなるが背中は暖かい」

聖書:ヨハネによる福音書1章1-5節

なんとも長ったらしいメッセージ題で申し訳ありません。

今日はクリスマス礼拝です。私はクリスマス、というとクリスマスの降誕劇をイメージしてしまいます。子どもの頃に自分が演じた事を思い出したり、そしてしばらく幼稚園の園長をしていましたから幼稚園の園児達が行った降誕劇を思い出したりします。私が務めておりました幼稚園の降誕劇は幼稚園のクリスマスの礼拝の一部として行われておりました。クリスマスの出来事をそのまま演じるのでそれがもう立派なメッセージとなっていたからです。私達は聖書を読むといろんな事を考えます。「これってどのように?」とか「どうしたらこんな事が出来る?」とか。でも子どもたちは真っ直ぐに聖書の言葉を受け取って、それを真っ直ぐに演じてくれるのです。毎年、私は感動していました。まっすぐに心をイエス様の誕生に向けるクリスマス、とても素晴らしいものでした。

そんなまっすぐな子どもたちから私はいろんなことを教えてもらいました。例えば、イエス様の譬えの中に百匹の羊を持った者が迷い出た一匹の羊のために九十九匹を野原に置いて探しに行く、というものがあります。新約聖書のマタイによる福音書18章とルカによる福音書の15章に書かれています。この譬えのお話で大人なら一匹を探しに行っている間に九十九匹が散らばって行ったらどうするの?と思ったりしてしまいます。「一匹と九十九匹とどっちが大事?」という計算をしてしまいます。でも、子どもはこの譬えをそのまま受け取ります。それも実感を込めて。何故なら、自分がいつ迷い出るか分らないからです。もし自分が迷い出た時には親や先生に見つけに来てもらわなくてはならないからです。その安心感を得るためにも、お友達が迷子になった時には先生には探しに行ってもらわなくてはなりません。だから子どもたちはむしろこう言うでしょう、「先生、○○ちゃんを探しに行って!僕たちここで良い子にしているから」。そして先生も同じ気持ちで「ここで待っていてね。探してくるからね」って。これって正に一匹を探しに行く羊飼いと九十九匹の羊の関係です。子どもたちはこのイエス様の譬えを実感出来る。「一匹と九十九匹はどちらが大事?」と計算するのは実は愚かな事で、一匹を大切にすることが既に九十九匹を大事にしている事だと子どもたちは教えてくれます。そんな子どもの真っ直ぐな心に、大人である自分を恥じてしまうような、そんな時が多くありました。

さて話は子どもの事から今お話しした譬えに移るのですが、先ほどこの譬えはマタイ18章とルカ15章に記されている、と言いましたが、このマタイとルカでは大きな違いがありまして、それはマタイでは単独でこの譬えが記されているのですが、ルカでは三つの譬えの一つとしてこの譬えが記されています。このルカの三つの譬えはどんなお話だったかを少しお話しましょう。一つ目はこのいなくなった一匹の羊のお話。二つ目は十枚の銀貨を持っていた女性がその一枚を失ってそれを部屋中探し回って見つけて大喜びし、ご近所にもその喜びを伝える、というお話。そして三つ目ですが、これは「放蕩息子の譬え」として非常に有名なお話です。ある人に二人の息子がいて、その一人が自分のもらうべき遺産を「今分けてくれ」と言って分け前をもらい、家を出てゆきます。彼はその財産で放蕩の限りを尽くし、やがて一文無しに。ろくに働き口も見つけることが出来ず腹を空かせます。その時に「うちの父ちゃんのところには雇い人がたくさんいて、その雇い人でさえ食べる物に困ったりしていないのだろうな」、そう思って「私にはもう息子と呼ばれる資格はないから雇い人にしてもらおう」と家に向かいます。すると父親は家に向かってくる我が子を見つけ、走り寄って抱きしめ、息子の「雇い人して下さい」という言葉なんて聞きもせずに服を着替えさせ「いなくなったのに見つかった、死んでいたのに生き返った、宴会だ、宴会だ」って喜んだというお話。この三つのお話がセットになっている、それがルカによる福音書です。この三つの譬えで私は以前から漠然とした違和感を覚えていたのですが、最近、その違和感の正体に気がつきました。それは、一匹の羊を羊飼いは探しに行って連れ戻した、一枚の銀貨を女性は探して苦労して見つけた、でもこのお父さんは出て行った息子を探しに行かずにずっと待っていた、というところです。この先の二つの流れから考えると心配した父親は息子を探しに行ってボロボロになった息子を見つけるというパターンです。どうしてこの譬えだけ、父親は待っていたのでしょう。心配になって探しに行かなかったのでしょう。これが私の持っていた違和感の正体でした。どうしてこの譬えだけ探しに行かなかったのでしょうか。しかし、結論から言いますと、実は父親は追いかけていたのです。それはこういうことです。この息子は、父親に親が死んだらもらえるはずの遺産を「今くれ!」と言います。それは「これで私とお父さんの関係は終り!」と関係の断絶を意味しています。少なくても息子はそう思っていました。でも、父親はそうは思っていなかったのです。渡せるだけの財産を渡す以前に深い愛情をもって育て関わり一緒に生きてきたのです。だからこそ、息子は本当に困った時に自分から縁を切ったはずの父親の家を思い出したのです。闇に向かって進んでいた、絶望に向かって進んでいた、死に向かって進んでいた、そんな息子に父親の愛が追いかけて来たのです。「私はお前を愛しているよ」って追いかけて来た。それで息子は振り返って遠慮がちにその愛にすがろうとした。ところがその愛のおこぼれをもらおうとした、そうしたら、さらにとんでもない愛が押し寄せてきた、そういうお話じゃないでしょうか。父親の愛が追いかけてきて、死にそうな息子を見つけて追いついてそして彼を我が家へ導いたのです。

昨年の4月に私は牧師であった父親を天に送ったのですが、その遺品整理をしていたときに私は父の説教メモを見つけました。そこには父と私のエピソードが記されていました。私がまだ幼稚園の頃だったと思います。父のメモにはこうありました。

「ある時、次男のイサクと散歩にでた帰り道、私は彼に『回転寿司を食べてから帰ろうか』と言いました。彼は『本当に?回転寿司食べるの?』と言って喜んでくれたのです。そこで私はこう付け足しました、『回転寿司を食べたことは内緒だよ。口が裂けても話しちゃだめだよ。約束だよ』彼は承知しました。家に帰りました。そして少し経った頃、彼は私の書斎にしょげ込んで入って来たのです。そして泣きそうな声でこう言ったのです。『お父さん、口が裂けた』。このことがあったのは開拓伝道を始めた頃で貧乏生活花盛りの時代でした。従って、子どもたちにとって、その時代は、お寿司なんかは遠い存在、匂いでさえ、かがせていなかったことでしょう。それがです。お寿司が食べられるというのです。いや、実際に食べたのです。美味しかったことでしょう。だとしても、このことは、誰にも話さないという約束の上で食べたのです。それなのに漏らしてしまったのです。ほんの30分ほど前の約束、秘密を破ったのです。何が、約束を、秘密を破らせたのでしょうか。答えは簡単なことです。回転寿司の美味しさです。その美味しさによる感動です。その感動が、私との約束を忘れさせてしまったのです。」

この時の事は私も覚えています。「口が裂けた」と言ったのも、そしてその後、父親は約束を破ったのに私を怒らなかったことも。父は私を「約束を破る悪い子」とは思わずに、「それだけ美味しかったんだ、感動したんだね」と思ってくれたんだ、とこのメモを読んで思いました。ああ、私は愛されていた、とこのメモを見て私は泣きました。父は亡くなりましたが、その後に父の愛が追いかけてきた事を感じました。父を失った悲しみや寂しさに沈む心に父の愛が追いかけてきたのです。

私は、放蕩息子の譬えもそうだったと思うのです。彼にとっては縁の切った父親、ある意味彼は自分の心の中で父親を殺したのです。そして闇に向かい、放蕩に明け暮れ、そして何も無くなって死にそうになった。ところが、そんな心に父の愛が追いかけてきた。だから、彼は振り返って自分の父の家、そして自分の家に帰って行ったのです。

今日のメッセージの題は「太陽に背を向けると暗くなるが背中は暖かい」です。太陽に背を向けると見えてくるのは影です。そしてその先には闇があります。でもね、太陽の暖かさは背を向けたところに当たっています。その温もりは追いかけて来るのです。

今日読んで頂いた聖書の箇所は、ヨハネによる福音書1章1-5節でした。ここにはこうありました、

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

ヨハネによる福音書は難しい言い回しをするので「何のこっちゃ?」と思うところが多くあります。言語の言という字を書いて「ことば」と読む箇所は、聖書には多くありません。この文字は特別な意味、つまり「神の言葉」という意味です。そしてその中身は「あなたを愛しているよ」ということです。ですから、この言語の言という文字はそのまま「愛」と置き換えても良いと思います。そうすると「初めに愛があった。愛は神と共にあった。愛は神であった」となります。それで良いと思います。初めに愛があって、その神の愛によって全ての命が生まれた、ということです。愛によって、そして愛に包まれて命はある。にもかかわらず、私達は心に闇を持ちます。弱さや悲しみ、悪い心、狡さ、傲慢さ、そんな思いが生まれます。心の暗闇です。そして「暗闇は光を理解しなかった」。その愛を価値のないようなものと思い理解できなくなる。そして離れてゆくのです。それは太陽に背を向けるような事です。しかし、それでも神様は私達を愛し続けて下さる。光から離れようとしても追いかけて来る。今日はクリスマスの礼拝、イエス様の誕生を喜ぶ礼拝です。このイエス様こそ、光から離れる私達に追いかけてきた暖かさなのです。私達の心の闇、社会の闇、そんな闇に向かって神様はイエス様を送って下さった。太陽から、光から、愛からいくら遠ざかろうとも神様の愛は追いかける。「あなたは愛されているよ」とじんわり背中を暖めてくれる。そんな方の誕生です。その方は私達に追いつき、そして私達を追い越して、闇を負って下さった。人の罪を負って十字架にかかって下さった。私達の弱さも悲しみも、悪い心、狡さ、傲慢さを負って十字架にかかられた。私達が進む闇への道に十字架でストップをかけて下さった。あなたを追いかけてきた愛はもうあなたの背中を温め、そして私達の目の前で十字架にかかり、今私達にまた光に向かって歩むことを促しておられます。聖書で言う「悔い改め」とは「方向転換」という意味です。私達は愛されています。今、愛されているだけでなく、これまでずっと愛されてきました。だから太陽に背を向けても背中は暖かったはず。その暖かさにむかって、光に向かって方向転換をする。それが信仰を得て歩み出す、ということです。愛されているように、愛してゆく。イエス様が私達の弱さを担って下さったように、互いに弱さを担い合う、一緒に生きる。それが光に向かってゆく歩みです。光として来て下さった方の誕生を心から喜び祝いましょう。

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