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2022年01月02日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「『恋人がサンタクロース』ではないけれど」

聖書:マルコによる福音書1章14-20節

おはようございます。そして明けましておめでとうございます。
い新年になりましたか?イマイチですか?大丈夫です。今日からです。今日が今年最初の主日礼拝です。今日から新しい年を初めてゆきましょう。そう言いながら、「恋人はサンタクロース」ではないけれど、と思い切りクリスマスを引きずったメッセージの題で申し訳ありません。まあ、クリスマスはイエス様の誕生、イエス様の生涯の始まりですから、はじまり、という意味では間違いはないのかもしれません。

ところが、そのイエス様の誕生を始まりとしなかった福音書があります。それが、先ほど読んで頂きましたマルコによる福音書です。マルコによる福音書の書き出しはこうです。

「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』その通り、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼(バプテスマ)を宣べ伝えた。」

まず「イエス・キリストの福音の初め」とありますが、最初に出てきているのはイエス様の誕生の出来事はなく、バプテスマのヨハネという人物の事でした。それについては今読みました箇所にここうありました。「わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」これはつまり、イエス様が登場するにあたって、その前段階が必要だと言う事です。

私はたまにテレビドラマを見るのですが、その際に決めている事があります。たいしたことではありません。それは「第一話を見逃したら、人からどれだけ面白いと言われても、評判になっても絶対に見ない」という事です。テレビドラマとか映画とか、冒頭ってとても大事です。ストーリーの背景や前提、登場人物の説明、人間関係とかがギューッと凝縮されています。だから第一話を見逃すということは、ひとつの話を見損ねた、という事以上に、土台となる部分を知らないまま見るということになります。そして後から「これってどういう意味?」ということが度々あって、それが嫌なのです。だから第一話目を見逃したら、もう見ないのです。

前提って大事です。「神の子イエス・キリストの福音」という書き出しなのに、そこでイエス様が出てくるのではなく、ヨハネが出てきているというのは、この福音の、イエス様の出来事にはヨハネという前提、このヨハネの存在なのですよ、とこのマルコによる福音書は語っているのです。

ヨハネという人物はとても正義感が強く、真面目で、一生懸命な人でした。自分に厳しく、人にも厳しい人でした。とことん節制したシンプルな生活、贅沢なんてとんでもない。そして聖書に書かれている約束事をきちっと守る。きっと人に言うためにはまず自分の実践から、と思っていたのでしょう。そんなヨハネは言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか。…斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(マタイ3:7-10)。怖いですよね。これはもう脅しと言っていいですね。「お前らみんな地獄行きだ!」って言っているわけですから。恐れさせて、導く。でも、それで結構たくさんの人が彼の言う事を聞いて、彼の所に集まります。誰だって一つや二つやましいところを持っているものです。そして、目の前のヨハネは真っ直ぐな人物。誰も敵いません。「ごめんなさい、どうしたら良いですか?」って言います。それでヨハネは「洗礼(バプテスマ)を受けなさい。一度死んで、生まれ変わって新しい正しい生き方をしなさい。そうしたら神様は今までの事を帳消しにしてくれるから」。「分りました」ってみんな言います。それでヨハネの前に並んで、ヨルダン川というところでバプテスマを受けていたようです。このヨハネは更に大きな悪にも黙っていられませんでした。「私達の国を司っているヘロデという人は、話に聞くと自分の弟の妻を奪ったと聞く。こんな事があって良いのでしょうか。聖書の戒めには自分の兄弟の妻と結婚をしてはいけない」と書いてあるじゃないですか!あんな人は人の上に立つ資格はありません!」。きっと人々は自分たちが思っていても、そして言いたくても怖くて言えない事をいってくれて「そうだ、そうだ!」と思った事でしょう。ヨハネという人物はとにかく、「悪いことは悪い」と恐れずに言う人物でした。だから周りの人はただ怖い人ということだけではなく、支配する、自分たちから税金を取り上げるそういう権力についても語ったということで人気もあった訳です。ところがそれを権力者のヘロデは快く思わずに、このヨハネを捕らえてしまいます。きっと人々はがっかりしたでしょう。「ああやっぱり、権力には敵わないんだ」って。「黙って従った方が良いんだ」って。そして「ああ、私達は何て無力なんだ」って思った事でしょう。

これが前提、これがイエス様が現れる背景です。ドラマの第一話。そしてここを話さないと、イエス様の登場の意味は伝わりません。

そこで、今日の聖書の箇所です。司式者に読んで頂いたところ。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝え」というところに来る訳です。こんな闇が、悪がまかり通る世にイエス様はガリラヤで声を上げられたのです。ガリラヤとは当時のイスラエルの辺境の地、イザヤ書8章23節では「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。イスラエルの片隅、小さくされた人々が住む場所です。そこで神の福音を語り始められます。「福音」それは「良い知らせ」です。神の良い知らせとは何でしょう。それはその後のイエス様の言葉の中にあります、「時は満ち、神の国は近づいた」。「時は満ち」とは、例えばコップに水を加えて縁まで増え、そして今にも溢れそうなそんな状態です。満ち満ちて溢れそうな時、ということです。そして「神の国は近づいた」。この「国」とは「王国」とか「支配」という意味です。先に言いましたヘロデの権力によって正義が踏みにじられた中にあって、イエス様は「神の王国はもうそこまで来ている。溢れそうだよ、今だよ、」と言われるのです。

そんな事、言われてもですね、社会が変わるわけじゃない。時代が変わるわけじゃない。そんなこと、今もそうじゃないですか。コロナの中、「自粛!自粛!」と言われるだけ、最初の10万円だけで何も助けてくれない。小さなお店は何万軒も潰れているのに、何もしない。検査も少ししかしない、病院の支援もしない。次の給付金も現金で出すことを渋り、間に業者通して買い物券みたいなものを作りたがる。それなのにほとんど使う人のいなかったアベノマスクの保管に何億円も使い続ける。そんな国に嫌気がさしても、もうみんな諦めているから選挙にも行こうとしない。そして政治は変わらない。「無理だよ、変わらないよ」っみんな思うような社会。こんな今と同じです。そんな中でイエスは「神の王国はもうそこまで来ている。溢れそうだよ、今だよ」って言うのです。「そんなの無理だよ。何が福音だよ。何が良い知らせだよ」って思ったんじゃ無いでしょうか。

しかし、ここで思い出して頂きたいのはこのマルコによる福音書の冒頭の言葉「神の子イエス・キリストの福音の初め」という書き出しです。大事なのはここから福音が始まった、ということです。イエスは神の福音を宣べ伝えた、とありますが、大切なのはここからです。ここからイエスが何を語り、何を行っていったか、ということです。このイスラエルの隅っこ、貧しい田舎のガリラヤでイエスは何をしたか、それはそのガリラヤの村々町々の中で、更に追いやられた人たち、病気の人、悩んでいる人たち、悲しんでいる人たち、そんな人と共に生きることでした。そして「大丈夫だよ。神様は一緒におられるよ。私も一緒だよ」って伝えていった事でした。それが始まったイエス様の福音でした。

今日のメッセージの題「『恋人がサンタクロース』ではないけれど」、この「恋人がサンタクロース」というのは松任谷由実さん、ユーミンとも言われる方の曲です。それはこんな内容の歌詞です。
「昔、隣のおしゃれなお姉さんがクリスマスの日に私にこう言いました。『今夜8時になったらサンタが家にやって来るのよ』。そこで『違うよ。サンタというのは絵本のお話よ。サンタなんていないわ』って言うとお姉さんはウィンクしながら『大人になったらあなたにも分るわ』って言った、という歌詞です。その先も続きます。あるとき、そのサンタはおねえさんを連れて行った、って。でサビの部分に出てきます「恋人がサンタクロース」って。このおしゃれなお姉さんは恋人が8時に来るのを待っていたんですね。一緒にクリスマスを過すために車に乗ってやって来るのでしょうか。そして一緒にクリスマスを過してプレゼントをもらうのかもしれません。でも、きっとプレゼントをもらえるから楽しみなのではなく、そのサンタクロース、その恋人が来る、ということが何よりのプレゼントであり、楽しみだったのだろうと思うのです。つまり、恋人がサンタクロースであると同時に恋人そのものがプレゼントだった訳です。

私は福音も同じなのだろうと思うのです。つまりね、イエス様は絶望的な状況の中でやって来て「神様はおるよ。大丈夫だよ。ほら、神様の国はじわじわ拡がってあなたのところに届くよ」といわれましたけれど、そう言いながら悲しみの中を一緒に歩まれたイエス様御自身に人々は慰めを受け、励ましを得たのだろうと思います。つまり、プレゼントを持って来たサンタである恋人自身が実はプレゼントという「恋人がサンタクロース」ではないけれど、福音を語るイエス様御自身が福音だった、という事なのだろうと思うのです。「大丈夫だよ、神様はおられるよ。その絶望、その悲しみの中に神様は共にいるよ。それが大きな福音さ」と語られたイエス様の姿に人々は神の伴いと慰めを感じたのです。イエス様が福音となられたのです。「プレゼントを運んでくる人が実はプレゼント」だったように「福音を運んでくる人が実は福音」、マルコはここでそう語っているのです。ですから、本当は「福音を宣べ伝えた」ということよりも「イエスはガリラヤへ行き」という部分、イエス様がガリラヤの人々に寄り添った、共に生きた、ということの中に福音があるのです。

私達はこの2021年度「地域の人びとと共に歩む教会」という主題を掲げてきました。この「共に歩む」ということ自体が福音なのです。そして教会とは私達一人ひとりです。ですから、この教会が建っているこの場所だけが「地域」なのではなく、私達一人ひとりが生きるその場所もまた地域です。私達が生きるその場所で出会う人たちと一緒に生きようとする事が大事であり、その中で起こった事柄を持ち寄って地域を広げて行くことも教会の大切な役目です。

では実際、イエス様からの伴いを受けて生きる、とはどういうことなのか、福音を頂いた私達の生き方って何なのか。それがその次の四人の漁師を弟子にする、という記事です。これはいろんな意味で「そんなことあるかい!」と突っ込みたくなるようなお話です。まず、漁師の人にいきなり「わたしについて来なさい。あなたを人間をとる漁師にしよう」なんて言うかい?って思いますし、その言葉を聞いてその場で全部捨ててついてゆくかい?って思ってしまいます。ですから、その前にこの福音の出来事が記されているのです。イエス様の言葉と伴い、そこに慰めと力をもらった人が立ち上がった、という記事として読んでゆく必要があるのです。

さて、ここでは何度も「網」という言葉が出てきます。「網を打っている」(16節)、「網を捨てて」(18節)、「網の手入れ」(19節)。漁師ですから当たり前ですが、その当たり前をあえて意識させようとしているように思えます。「網」とは英語では「ネット」。掬(すく)い上げる道具です。ダジャレではありませんが、ここには「掬う」と「救う」がかけられているのだと思います。セイフティネットという言葉があります。「転落防止網」という意味ですし、人間の命や安全を守る仕組みのことです。魚を獲る場合の網(ネット)は食べるために魚の命を奪うためですが、このイエス様の「人間を獲る漁師」は逆に人を救うものであり、命を守るためのネットを扱ったり、自らネットになったりするものです。これは「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ2:4・ミカ4:3)という言葉のように方向転換をうながす言葉です。彼らは福音という新しい網によって人の命や心を救う道へと方向転換するのです。それはつまり、プレゼントを受け取った者がプレゼントを渡す者になる、福音を受けた者が福音を運ぶ者となる、伴いをうけて立ち上がった者が今度は誰かに伴って生きる、ということです。

ここで、イエス様に招かれた四人は「網を捨てて従った」(18節)、「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後に従った」(20節)とあります。ここでイエス様に従う事は、これまでの一切を捨てるかのように思われます。しかし、その後、シモンはイエス様は自分の家に招きしゅうとめの病を癒やしてもらいます(29~31節)。シモンは家や家族を捨ててはいないのです。ここから、イエス様に従うということの本質が、一切を捨てるということではなく、土台を変えるということだと分ります。今までは仕事、家族を中心に据えていたけれど、そのもっと深いところに中心を支えるものとして信仰があるのです。例えば、自分の家の畳を替える、もしくはフローリングの上に絨毯を敷くとします。そうしたらその部屋の家財道具、タンスとか、本棚とか、テレビ台とか、一度その部屋からどかさなくてはなりません。そして新しいものをそこに据えたらまたその上にタンスや本棚をまた置きます。それと同じです。土台を据え直すために、一度上に乗っているものを別の場所に置き、土台を据え直してその上にまた置く、そういう事です。それがイエス様に従うということです。別に捨てる必要はありません。新しい土台の上に生きるのです。新しい土台、それが共におられるイエス様です。このイエス様の伴いによって新しい生き方をするのです。それはヨハネが語った人に恐怖を与えるようなものではなく、共にある安心と喜びの上にある新しい生き方です。そしてその安心と喜びが私達を福音を伝える者としてゆくのです。

床暖房がじんわり私達を暖めるように新しい土台は私達を暖め、そしてその暖かさを得て、この闇のような、そして冷たい真冬のような中へ私達は歩み出して行くのです。しかし、それは一人ではありません。イエス様と一緒です。イエス様と一緒に闇の中、寒さの中にある人にプレゼントを携えて、福音を携えて歩み出して行きましょう。それが人間をとる漁師、セイフティネットとしての生き方です。

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