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2021年12月26日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「むしろ、あなたのために」

聖書:ヨハネによる福音書1章29節

おはようございます。突然ですが、皆さんはテレビとかに出ているアイドルの顔って判別できます?私はね、出来ないんですよ。ジャニーズのアイドルや、AKBみたいなグループ、みんな同じ顔に見えちゃうんですね。そして、みんな同じ顔に見えるようになって、「年取ったな」って思うんです。なぜなら、私が子どもの頃、ザ・ベストテンとか人気の歌手が出てくる歌番組とか見ていると、父親が通りすがりに「みんな同じ顔に見えるんだよな」と言っていたからです。父親と同じ事を今自分も思っている、それで、年取ったんだな、って思うのです。歳を取ったのか、興味が無くなったのか、それは分りません。このアイドルですが、その言葉の意味を知っていますか?前にも言ったことがあるかも知れませんが、このアイドルという言葉は英語なんですが、その意味は偶像、ということです。インターネットで「偶像」という言葉の意味を調べてみましたら、こう記されていました。①木、石、土、金属などで作った像。②神仏にかたどり信仰の対象とする像。③(比喩的に)あたかも神や仏のように崇拝の対象となっているもの。そうありました。その通りですよね。作った像、神仏の対象の像、崇拝の対象。ここから考えると、アイドルというのは③の崇拝の対象、ということが出来るように思います。熱狂的なファンはアイドルを崇拝の対象としているです。でもね、アイドル、ってただの崇拝の対象ではないのです。アイドルって初めからいるものではなくて、アイドルとして作られるからです。衣装、髪型、メイク、話し方、売り出し方、そういうものはその本人の元々のキャラクターではなくて、こういうふうに「売り出していこう」と周りが決めたり本人が演じたりするものです。時代に合うように、流行の沿うように。キリスト教では偶像礼拝の禁止、ということが強く言われることがあります。それでお寺に行ってはいけない、とか仏教は悪い、とか言う人もいますが、私はそんなことを言っているのではないと思います。別に形作られた神仏が悪いわけではありません。問題は、都合良く作る事です。人間の都合の良いように作られる事です。世の中にはたくさんのアイドルがいます。その中で自分好みのアイドルを選んで応援する、「推す」って言うんですけど。このように自分のえり好み、都合の良い神様を造り上げることが偶像なのです。問題は、そこです。神様を自分好みに変えてしまう、ということです。

私は忘れられないんですが、アメリカがかつてイラクと戦争を行った時に「ゴッド・ブレス・アメリカ」という言葉を使っていました。「アメリカに神の祝福あれ!」それはつまり、神は私達を戦争に勝たせてくれるに違いない、ということです。でも、本当でしょうか。あのイラク戦争って元々は、イラクが大量破壊兵器を保有している、という理由で連合軍が戦争をしかけたのです。でも、戦って勝ちはしましたが、大義名分の大量破壊兵器は見つからなかったんですね。つまり、あの戦争は正しくなかったのです。で、「ゴッド・ブレス・アメリカ」ですけど、勝手に神様は私達を勝たせてくれるに違いない、と言いながらでもその戦争は間違っていた。これは神様を都合良く利用しただけ、「アメリカを守って下さる、勝たせて下さる」そういう神様を造り上げてしまったんですね。偶像というのはそういうものです。偶像は姿形の問題ではなくて、それを作る人の心の問題なのです。偶像はいつも私達の心の中にあるのです。

さて、実はこの偶像ということが今日のお話の中心ではありません。もっと別のところにあります。そのためにもうちょっと、私が見分けをつけることが出来ないアイドル、AKB48のお話しにお付き合い下さい。別に詳しくは無いのですが、今のアイドルグループ人気の火付け役のAKBです。なんでAKBという名前か知っています?これは東京にある秋葉原という地名から取られています。なんとか48というグループがたくさんありますが、あれはほとんど地名です。SKE48は名古屋の中心地の「栄」、NMB48は大阪の「難波」、HKT48は福岡「博多」から取られています。このAKBという名前はその名の通り、東京の秋葉原に劇場があって、毎日公演が行われています。これってどういうことかと言いますと、いつでも会いに行ける、ということなんです。私はスピッツというバンドが好きなんですが、コンサートツアーとかで福岡にやって来るのは数年に一度です。それを逃せばまた数年後。ところが、AKB48は会いたいときにいつでも会いに行ける、身近なアイドルな訳です。そしてね、秋葉原というと昔は電気機械の専門店街だったのですが、今は「おたくの聖地」と呼ばれています。テレビマンガの関連商品、「お帰りなさい、ご主人様」って迎えてくれるメイド喫茶、そしてアイドルの関連商品、そういうちょっと独特な文化、趣味、趣向に深くのめり込んでいる人を「おたく」というのですが、そういうものがたくさん置かれているのが秋葉原なんですね。で、おたく、という人たちは、周りの人からはからは趣味趣向のはまり方がすごいので煙たがれていたのですが、そこにいつでも会えるアイドルがやって来た、おたくは大喜びです。私達のアイドルだ、ってことになります。このコンセプト、「あなたの身近なアイドル」「会いに行けるアイドル」「あなたのためのアイドル」、それって今までの、遠い神々しい存在、手の届かない存在であったアイドルとか、スターとか、テレビでしか見ることが出来ない、銀幕のスターと言う言葉があるように映画でしか会えない、ブロマイドや写真集を買って大事にするアイドルとは全く反対のイメージです。それが秋葉原だけでなく、名古屋でも、大阪でも、福岡でも。これが人々の心を捕らえちゃったんですね。今までのアイドルは一人ひとりなんて見ていなかった。群衆に向かって歌っていた、でも「なんとか48」は私の近くにいるアイドル、あの握手してくれた子、そういう身近なアイドル。
ここです、近さです。「みんなの」ではなく「わたしの」というところです。そして、ここが、私達の信仰の話と重なるのです。

アイドルの話ばかりして今日の聖書の言葉を忘れたかも知れません。こんな言葉でした。「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。』」ヨハネという当時のある意味カリスマ的な宗教指導者が自分の方に来るイエス様を見て、「あっ、この人こそ本当の救い主だ」って思ったというのです。この言葉の大切なところは「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て」そして「世の罪を取り除く神の小羊」と言ったところです。「世」という言葉は世界や人類という一般的なものとして考えそうになります。そしてそれでは神様という存在は遠い存在です。遠い遠い存在。遠くで光り輝くような星、銀幕のスターのような、ただ憧れるような、ただ見ているだけのような。自分とはちょっとかけ離れた、自分の生活とは関係無いような神。

私が学生の頃、学生鞄をぺしゃんこにすることが流行っていました。鞄というのは中に教科書とかノートとか筆入れとかを入れて学校に持って行き、家に持って帰るためにあるわけです。ところが、その鞄がぺしゃんこ。するとどうなるか。家に持って帰られなくなる訳です。家で宿題を使用としても出来ない、予習復習をしようとしても出来ない、なぜか。鞄がぺしゃんこで教科書を持って帰られずに、学校の机の中に入れっぱなしになるからです。それは、学校の生活と、家の生活とが全く別物になるということです。それはそれで良いかもしれません。学校は勉強の場。家は生活の場所と分けられるから。でも信仰は違うんですよね。教会で信仰のことを思い出して、家では何もなかったように生活するのではなく、むしろどのように生活するか、そのために教会があり、信仰がある。乖離してはいけないのです。ところが神様が遠い存在になると、教会で何とか神様を思い出し、家では神様の事、信仰の事、を忘れてしまう。そういうのを「日曜日クリスチャン」て言うんですって。それは神様が遠いからです。スターや昔のアイドルのように。

しかし、今日の箇所では「ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見」たんです。それは「あっ、この方は、遠くから私達を見張っているような神ではなく、私のために来て下さった方だ」と思ったということです。これはとても大切な事です。「自分」「わたし」のためにと考えられたら、神様という存在は非常に近くなります。ヨハネは広く、そして多くの人に「悔い改めよ」と言って来た。それで人々は「神様、きっとわたしの事、怒っている。怖い。もうしない。」そんな風に考えたのです。でも、イエスは一人の人であるヨハネに向かって行った。ヨハネは「わたし」を意識したでしょう。そして、救いは私の事柄、イエス様は私の救い主と思えたのです。AKBが「私の近くにいるアイドル」「わたしのためのアイドル」「会いに行ける、いやこの町に来てくれたアイドル」そう思えたからこそ、これだけ広がった。遠いアイドルから近いアイドル。同じように、イエス様の存在、そして福音書を見ますと、イエス様は一人を大事にされた方です。「神様はあなたを愛しているよ」っていいながら社会からはじき出さされた病人や罪を犯した人や汚れているとされた人、悲しんでいる人に一人ひとり伴われた。その伴いに「神様はあなたを愛しているよ」ってこういうことか。神様は今、私と友におられる。このイエスこそその神を表す方だ、って。それは遠い神から近い神。「私の近くにいる神」「わたしのための神」「会いに行ける、いやこの私のところに来てくれた神」そう思えたのでは無いでしょうか。
「世の罪を取り除く神の小羊」。「世の」つまり「みんなの」という言葉には間違いはありません。しかし、信仰の第一義的な意味は「イエス様と私」であり、そこからの広がりとしての世であり、この世に生きる私のための救いということを考えたいと思います。なぜなら私はこの世に生きているのですから。むしろ、わたしのために、私に向かって来て下さったのです。

クリスマスも同じですよね。私はこんな言葉を聞いたことがあります。「イエス様が何度誕生しようとも、あなたの心にイエス様が生まれなければクリスマスには何の意味もありません」という言葉を聞いたことがあります。救い主の誕生は自分で自分を救えない私のための誕生なのです。

先日、東八幡バプテスト教会の牧師で、ホームレス支援の働きをされている奥田先生がかつてホームレスのような状態の若者にインタビューしていました。その時にその若者は言うんです。「昔はクリスマスや正月や誕生日が嫌いだった。なぜなら、自分が独りぼっちだと強く感じるから」って。そう思わせているクリスマスは本当のクリスマスではありません。「いや、むしろあなたのためのクリスマス。あなたのためにイエス様は来られたんだ」そう伝えられていないキリスト教、私達の力不足を強く感じました。私達はもっと、「私の方に向かってイエス様は来て下さった。私と一緒にいきるために」ということを実感することが大切だし、そういうメッセージをうけてゆくことが大切です。そうなったら、教会も、家も同じです。いつも一緒にいて下さるのですから。絶望や孤独の入り込む隙間がなくなりますから。いいですか?あなたのために、あなたに向かって、あなたと共に生きて下さるためにイエス様はこられたのです。

そして、この「わたしのためのイエス様」をあなたのため、そして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と語っていくのが私達の働きです。このイエス様を近い方として伝え、そして私達一人ひとりもここから出て行って出会う人と伴い、愛してゆくのです。イエス様がされたように、です。その愛によって悲しみ、悩み、痛む人たちに「むしろ、あなたのためにイエス様が与えられたのです」と伝え、一人ひとりが希望をもって歩む事が出来るように、私達も歩んで参りたいと思います。絶望が入り込む隙間が無いように、希望に生きることが出来るように。

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