言葉と意味の間には、大きな壁があります
実際の内容はまったく別なのですが、最近こんな感じの誤解があって困りました。こういうの、割とあるあるだと思います。今後はなるべく発生しないように気をつけたいと思ったので、noteを書いておくことにしました。アウトプットしたことは深く刻まれますからね。ちなみにぼくはAさんの立ち位置で、自分はそんなこと言った覚えはない!と憤っているほうです。
Bさんは、同意してくれたAさんが自分と同じ気持ちだと解釈し、それを根拠としてCさんに伝えております。Aさんは一度たりとも「また行きたい」とは言っていませんが、Bさんが質問に対する回答を「肯定」「否定」でざっくり分けていたり、なんとなく受け取っていたり、記憶が曖昧だったりすると、このようなミスが生まれるのだろうと思いました。大抵の場合、楽しかったのならまた行きたいわけですからね。AさんはBさんとCさんの会話を想定しておりませんが、「楽しかったけど今回だけでいいかな」まで伝えられると丁寧でしたね。
ぼくは明言されていること・されていないことは意識して分けようと心がけていて、お仕事中もできるだけYES・NOで返事をしてもらうようにしています。そんな気持ちで会話しているので、Bさんの言動に引っかかりを覚えました。そんなこと言ってないじゃん。と思っちゃうわけです。
こんなふうに判断しづらいニュアンスでも明言されている・されていないでスッパリ分けて理解し、相手にもそれを求めるのは理系特有の病気みたいなものなのかなーとも思ったんですが、こっちの方が誤解が少なくて済むのでよいような気もしています。どうでしょうか。
言語は人類の偉大なる発明ですが、適切に使わないと損失もでかいですね。
ふと、適切に言語を扱えるだけの能力がないとChatGPTくんを上手く使いこなせないのでは?と思ったのでご本人に質問してみました。
ChatGPTくん、めちゃくちゃ優しい…
言語を正しく使えない人でも問題ないような仕様になっておりました。これで頭の弱いぼくもひとまず安心です。しかし、ツールは人々の格差を広げますからね。インターネットのおかげで個性の格差は広がりましたし、同じように、検索力の格差、プログラミング速度の格差、外国語利用の格差は広がっていくのであろうなと思いました。
お話が脇道にそれたので戻します。
言葉は時代によって移り変わっていくもので、微妙なニュアンスもありますし、数式のように定義できるものではありません。論理的思考だ!といってもフワッとした部分は残りますし、そういう「感じ」みたいなものもまた美しかったりします。だからこそ伝える側と受けとる側には想像力が必要で、両者の想像力の積(ここで和としないのは、どれだけ話しても伝わらない人がいるからです!)が一定の値を超えたとき、はじめてコミュニケーションが成立するものだと思います。
より多くの、いろいろな世界の人とコミュニケーションを取るためには、自分の想像力と言語能力を大きくしていくことが大切なのですね。
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