見出し画像

あるクリスマスの日

その年の12月24日、仕事を終えた僕は、深夜に帰宅することとなった。

クリスマスに何かを求める年齢ではなくなっていたが、心の中に虚無感に似たものがあるのも確かだった。

オートロックを解除して、エントランスに入ったとき、僕は内心ため息をついた。

――ああ、タイミングが悪かったな。

エレベーターの前に外国人の男女グループがおり、アルコールが入っている人間ならではの声量で会話していたからだ。4人とも、欧米人らしかった。このマンションの住人なのか、あるいは住人を訪ねて来たのか。そのあたりは不明だが、他人の迷惑を考えられない状態であることは明確だった。

エレベーターが到着し、ドアがひらいた。4人組はベラベラと喋りながら、またベタベタと互いの身体に触れ合いながら、エレベーターに乗り込んでいく。いったん見送りたいところだったが、いっしょに乗らない理由を探すことができず、僕はしぶしぶあとにつづいた。

最後に乗った僕は、『4』、『▶◀』の順でボタンを押すと、彼らに背を向けた。閉まったばかりのドアとは、ほとんど鼻が触れるほどの距離だ。

「コンニチハ」
片言の日本語が、僕の背中に投げつけられた。女の声だった。

不愉快に感じた。彼女の言葉が、こちらを小馬鹿にするような響きを持っていたからだ。

僕は無理矢理に頬を持ち上げ、顔だけを少し後ろに向けた。

「こんにちはー」

なぜか笑いが起きた。

「オハヨウゴザイマス」
こんどは男の声だ。こちらを小馬鹿にするような口調である点は、女と同じだった。

僕は露骨に面倒臭さを押し出した声で応えた。

「はい、おはようございます」

また笑いが起きた。手を叩く音まで聞こえた。

完全になめてやがる……!

僕は猛烈な怒りをおぼえた。そして、決意した。

つぎに同じことをしてきたら、ブチギレてやろうと

集団心理やアルコールの影響があるのだとしても、それらが人を不快にしていい理由には断じてならない。そもそも、ここは日本だ。日本人や日本語に敬意を払えない者が、我が物顔でのさばっていい場所ではない。こちらが反撃に出ることはないであろうという打算と、自分たちが優位に立っているという思い違いを粉砕してやる。調子に乗ったことを後悔し、気まずい夜を過ごすがいい。

光っていた『4』のボタンが消灯し、ドアがひらく。僕は歩き出したが、腹の中では、怒りが消化不良を起こしていた。

「Hey!」
女に呼び止められた。

僕はエレベーターを降りたところで足を止め、肩越しに振り返った。女の青い目が、こちらを見つめている。

さあ来い。この国にはまだ、侍がいるということを教えてやる……!

彼女は笑顔でこう言った。

「merry christmas!」

本場の発音で放たれたその言葉は、僕の胸の中心に響いてしまった。怒りはたちまち霧散していき、抱えていた虚無感を埋めるように、温かな何かが胸に広がっていくのがわかった。

「メリー……クリスマス……」

僕が言うと、ドアが閉まりはじめた。4人とも笑顔で、僕に手を振っていた。

彼らに対する敵意はもう、一滴も残っていなかった。

これが、聖なる夜ってやつか……。

吹き抜けから見下ろすと、エントランスに飾られたクリスマスツリーが見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?