倒れた猿
10月下旬、僕はハイエースを運転して、オートキャンプ場に向かっていた。
高速道路を降りて、現地のスーパーで買い出しをしたあと、のどかな田舎道を走る。
景色のいい場所に行って車中泊をするのが、近ごろの楽しみとなっていた。
よく晴れた日で、空は青く、日光を受けた山は鮮やかな緑色をしている。
その緑を分断するように延びる灰色の上を、心地いい速度で進んでいく。
信号機もほとんど見なくなり、田舎の風景に癒された僕は、すでに「来てよかった」と感じていた。
それを見たのは、小さな橋に差しかかったときだった。
橋の車道の端に、猿が倒れているのだ。
そのすぐそばには仲間の猿が一匹、呆然と立ち尽くしている。
車に轢かれてしまったのに違いなかった。
反射的に車を減速させていた僕は、二匹の猿から引き剥がした視線を前方に移した。
反対車線に停まっているライダーが目に留まる。彼はバイクにまたがったまま、倒れた猿を見つめながら、携帯電話らしきものを取り出している。
どうやら、しかるべきところに連絡をしてくれるところらしい。
軽いパニックになっている自分とは違い、ああも冷静に対処できるなんて、同じ目撃者として頭が下がる。
僕は落ちていた速度を戻し、車を進めた。
眼前には依然として綺麗な景色が広がっているが、旅行気分は消し飛んでいた。
傍らにいた猿は、倒れた猿の家族だったのだろうか。
友達だったのだろうか。
起きたことを理解できているのだろうか。
人間を恨んでいるのだろうか。
生きるとは奪うことだと、何かの作品で読んだことがある。
ならば、あの猿に情を移した自分のような、奪う覚悟なき者に、生きる資格はないのだろうか。
それとも、やはり人間は、地球に存在するべきではないのか。
あの猿を轢いたのが、地元の車だったのか、旅行者の車だったのかはわからない。
しかし少なくとも、自分のような旅行者が減れば、ああいった哀しい出来事も減るはずだ。
空模様とは対照的な、どんよりとした気持ちを抱えたまま、僕はハイエースを走らせた。
目的地に到着して、眺望のいい場所に車を停めた。
椅子やテーブルやカセットコンロをリアハッチから降ろし、その場で一夜を明かす準備をはじめた。
興奮から、小難しいことはすっかり考えなくなっていた。
外で昼食をとり、景色を眺め、現地の温泉に入り、外で夕食をとり、車内で寝る。
旅行というよりも、冒険ごっこをしているみたいで楽しかった。
翌朝、後片付けが落ち着いた頃、オーナーさんがやってきたのでお話しさせてもらった。僕よりずいぶん年上だが、僕よりずいぶん背の高い男性だ。
土日は混むことや区画を増やす計画を聞いたり、次回はあの区画に泊まってみたいと言ったりした。そして——。
「じつはここに来る途中に——」
なかば無意識に、僕はあの猿のことを話していた。
オーナーさんも、心を傷めてしまうかもしれないのに。
胸に抱えた罪悪感に似た想いを、何割か肩代わりさせるだけになってしまうかもしれないのに。
「——僕は、どうすればよかったのか……」
それまで穏やかだったオーナーさんが、急に大きな声を出した。
「なんだあ!それ持ってきたら12,000円もらえたのにぃ!」
えーーー!
と僕は心の中で叫んだ。
「いやあ、もったいないなあ」
オーナーさんの口調からは、猿への同情などはいっさい感じ取れなかった。
「それはもったいないことをしましたよ」
「……どういうことです?」
混乱しながら訊ねると、オーナーさんは説明してくれた。
この地域では、猿は害獣指定されており、駆除した証拠を提出すれば、自治体から報酬をもらえるのだという。
猿だけでなく、猪や鹿や——。
「ハクビシンだっていいんですよ。あ、見てください」
オーナーさんは自慢げに、スマートフォンの画面を僕に見せる。
「昨日私が仕掛けた罠にかかってたんですけどね」
画面には地面に横たわった猿が映っている。
「ああ、すごい……」
「これも以前捕まえたやつです」
オーナーさんは画面をスワイプし、次々と倒れた猿を表示させていく。
その様はビックリマンシールのコレクションを自慢する少年のようだった。
「す、すごいですね」
あの猿をかわいそうだと思ったことがバレたら叱られる可能性まであると思い、僕は自分のスタンスを急変させた。
「じゃあ、一日二匹でも捕まえたら生活できちゃいますね!」
「一匹で充分ですよ!」
「あ、たしかにそうですね。ははは!」
空笑いしながら、僕は自分の甘さを痛感した。
田舎で暮らす人々は、日々自然と戦っているのだ。
一生懸命に育てた作物を食い荒らされ、子供が襲われてしまわないか心配し、そういった実害を受けている人々にとって、野生動物は敵でしかないのだろう。
僕は、あの猿を見てかわいそうだと思った。動物を駆除することによって報酬が得られるというシステムにカルチャーショックを受けた。
だが彼らにしてみれば、そんなものは自然の残酷さと向き合いもせずに暮らす、都会の利便性に毒された人間の戯言に過ぎないのかもしれない。
考えてみれば、筋が通っていなかったのだ。
狩りをするでもなく肉を喰い、農業をするでもなく米や野菜を喰っている自分のような人間が、食料となったり、農業の邪魔をする野生動物の死骸を見て憐れむなんて。
これでは善人面をしたいだけの、現実を見ていない甘ちゃんだと非難されても文句は言えない。
「じゃあ、私は作業に戻ります」
オーナーさんはエネルギッシュな笑顔で言うと、その場を離れていく。
「お世話になりました。また平日を狙って来させてもらいます」
「ええ。では運転、お気をつけて」
車を発進させると、整地作業をしていたオーナーさんが手を止めて、深々と頭を下げていた。
昨日通った道を戻っていくと、あの橋が見えた。
倒れた猿と立ち尽くす猿。
彼らはもういなくなっていたが、その姿は僕の頭の中に鮮明に残っていた。
——憐れんではいけない。
もし憐れんだ場合、自分は善人面をした甘ちゃんだということになってしまう。
……しかし、やはりどうしても、残された猿の気持ちを考えてしまうのだった。
いったい、どう感じるのが正しいのだろう。
このままでは自分の中で悩みといえるレベルの問題となってしまいそうだったので、僕は暫定的な答えを出した。
自分が甘ちゃんだということを受け容れた上で、憐れもう。
ひとまずは、そういうことにしておこう。
ルームミラーに映る橋は、ずいぶん後ろに遠ざかっていた。
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