見出し画像

落ち着かない空の旅

ああ、もうくたくただ。
羽田に向かう飛行機の座席に腰を下ろし、僕は目を閉じた。
このまま寝てしまおうか、それとも離陸して背もたれを倒せるようになるまで我慢しようか。那覇空港からだと2時間半はかかる。ここはひとまず我慢したほうが、結果的に長く眠れそうだ。
僕は重いまぶたを上げた。

左側に首を回し、窓の外を見る。暗い空を背景に、空港や飛行機の灯りが輝いている。それほど綺麗だと感じられないのは、窓に反射して映る機内の様子が邪魔をしているからだろう。

沖縄国際映画祭というイベントの帰りだった。
この日僕は朝一の飛行機で沖縄に行き、出演作品に関するイベントや浜辺のステージでのネタ出番などに出演した。
3月なのに沖縄だというだけで勝手に暑いと思い込み、薄着で来てしまったことで、余計に疲れてしまっていた。

周囲の席に人が座っていく気配がして、僕の隣の席も埋まった。

真後ろから、女の人の声が聞こえた。
女神を想起させるような、透明感のある美しい声だった。

僕はさりげなく顔の向きを変えていき、つぎに目の向きを変えていき、窓の反射を利用してその人の姿を確認した。

中谷美紀さんだった。

胸が高鳴った。頭上のスピーカーから聞こえてくる「快適な空の旅を」という言葉が、初めて心に響いた。
ドラマ『ケイゾク』のファンである僕にとって、中谷美紀さんは特別な存在なのだった。

眠気は吹き飛び、僕の全神経は耳に集中した。
中谷さんは、彼女の隣――僕の斜め後ろに座る人物と会話していた。

「――でも、ボクシングって危ないじゃないですか。どうしてつづけられるんですか?」
美しい声で、中谷さんが訊く。
「まあ、自分との戦いというか……」
野太い声で、相手は答える。

ボクサーだ。中谷さんは、ボクサーと会話している……!
僕はふたたび窓の反射を利用して、後方の様子を窺う。
しかし、角度の関係で、野太い声のボクサーの姿は見えなかった。
シートごと後ろにスライドさせないかぎり、ボクサーが映ることはなさそうだ。そんなことはできないし、ましてや立ち上がって振り返ることなどできるはずもない。

もはや頼りになるのは耳だけだった。
僕は聴覚を研ぎ澄ませる。
意外なことに、中谷さんのほうが会話に積極的であるような印象を受けた。
楽しげに笑ったりもしている。

やがて野太い声の人物は、たどたどしい口調でこう言った。
「よかったら、連絡先を、交換しませんか?」
「あ、わたしでよかったら」
あっさりと、じつにあっさりと中谷さんは承諾した。その声は明るく、嬉しささえ感じられた。

嘘だろ、あの中谷美紀さんが、連絡先を交換したぞ!
誰だ、誰なんだ!?
離陸時の揺れや騒音に気を取られなかったのは、このときが初めてだった。

僕は頭の中に、ボクサーの姿を思い浮かべた。
具志堅さんか? 
いや、そうだとしたら口調でわかるはずだ。沖縄であることに囚われてはいけない。

内藤大介さん? 
いや違う。内藤さんも特徴的な喋り方をする方だ。この野太い声の人物のそれではない。

長谷川穂積さん? 
いや、こんなに太い声ではないはずだ。

脳内にボクサーを列挙していくが、この人だという確信には至らない。

とうとう選手が思い浮かばなくなり、思考が停滞した。
そうなると眠気が再発生し、じわじわと僕の意識を奪っていく。

僕はテスト前日の学生さながらに、迫りくる眠気と戦った。
もはやボクサーの名前を考える余裕はなくなっており、覚醒状態を保つのがやっとだった。

やがて、頭のてっぺんから意識を抜き取られるようにして、僕は眠りに落ちてしまった。

衝撃を感じ、僕は両目をひらいた。
自分を包む轟音と振動から、飛行機が着陸したのだと察しがついた。

寝ぼけている時間は一瞬もなかった。ただゲームをコンティニューしたかのように、僕はすでに野太い声のボクサーについて考えていた。

後方に意識を向ける。中谷さんとボクサーは沈黙していた。

機体が静止し、ポーンと電子音が鳴る。僕の隣の席の男性が、手荷物を持って通路に出ていく。

僕もシートベルトを外し、通路に出る。上の棚を開け、荷物を引き出しながら、僕はやや緊張していた。
ずっと解けなかった謎――中谷さんと連絡先を交換した野太い声のボクサー。とうとうその正体を知ることになるのだ。

視界の左側で、その人が立ち上がったのがわかった。僕はなるべくゆっくりと、そちらに顔を向けた。

しずちゃんだった。

南海キャンディーズの、しずちゃんなのだった。

「あ、お疲れ様です」
僕に気づいたしずちゃんは、微笑みながら言った。

僕は猛烈な勢いでこみ上げる「お前かーい!」を懸命に抑え込み、
「おう、しずちゃん、同じ便だったんだね」
精一杯、平静を装って応えた。

そのやりとりを見ていた中谷さんは、ニコッと笑って僕に挨拶をしてくれた。

「ああ、どうも、お疲れ様です!」
僕はたったいま気づいたという芝居を打ちながら、挨拶を返した。

ボクサーの正体がしずちゃんだったとわかってしまえば、僕と中谷さんの席が近かったことも腑に落ちた。このあたりは、単に映画祭の関係者が、まとめて押さえたエリアだったのだろう。

ドアがひらいたらしく、通路に詰まっていた人々の列が進み始めた。
二人を先に行かせ、僕は座席のほうから列に入ろうとする人たちに、つぎつぎと前を譲りまくった。
まだ耳は熱を持っており、しずちゃんと距離をとる必要があった。

大きなことを学んだ、空の旅だった。
声が野太いからといって、男であるとは限らない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?