あるハロウィンの日
「ああ、今日はハロウィンか……」
深夜に帰宅した僕は、当時住んでいたマンションのロビーで呟いた。
カウンターの上にカボチャを模した皿があり、それが目に入ったことで気づいたのだった。皿にはオレンジ色の袋に入ったキャンディが盛られていて、皿の向こう側の端には悪魔の手が、こちらに掌を見せるような恰好で取りつけられていた。
行事ごとに疎い僕とは対照的に、大家さんはそういったことを重んじる人だった。クリスマスにはクリスマスツリーが、ひな祭りにはひな人形が、こどもの日には鎧兜が、ロビーに飾られていた。大家さんはとても人当たりのいい、花が好きな年配の女性だ。僕は仕事で花束をもらうと、必ず大家さんにプレゼントした。そのたびに、彼女は感激してくれた。
皿から目を離し、僕はエレベーターのほうへ歩いた。しかし、カウンターの前を素通りしたところで、ふと足を止めた。
少しでも、ハロウィン気分を味わっておいたほうがいいのではないか。パーティーなども苦手で、一人暮らしである自分が、温かい気持ちになれるのはいましかない。恥じらう必要もない。深夜であるいま、誰も僕を見てはいないのだ。
何より、せっかく大家さんが用意してくれたのだ。明日の朝、一つも減っていなかったら、大家さんは悲しんでしまうかもしれない。
僕は引き返し、カウンターの前に立った。例の皿に手を伸ばす。
そのときだった――。
カシャン、と悪魔の手が倒れ、僕の手の甲を叩いた。
僕は絶叫し、腰を抜かした。しんと静まり返っていたマンションの吹き抜けに、叫び声は盛大にこだました。事件性を感じさせるであろうレベルの声だった。
床に尻もちをついた僕の耳には、残響と、音質の悪い悪魔の声が聞こえていた。
フォフォフォフォフォ――。
ちきしょう……! ちきしょう……!
僕は立ち上がり、逃げるようにエレベーターの前に移動した。悪魔を恐れたわけではない。起こしてしまった住民に、苦情を言われては敵わないからだ。
ボタンを押そうとしたとき、右手にキャンディを握っていることに気がついた。どうやらびっくりして握っていたらしい。
僕は袋を破り、キャンディを口に放り込んだ。心拍数は跳ね上がったままだ。
ちきしょう……! ちきしょう……!
笑うカボチャのように、大家さんが喜んでいる顔が頭に浮かんだ。
これが、あなたのハロウィンですか? これで満足ですか?
僕は大家さんへの復讐として、キャンディを奥歯で噛み砕いた。
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