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ユヴァル・ノア・ハラリの勧める瞑想 「ひたすら観察せよ」

サピエンス全史の著者、ユヴァル・ノア・ハラリは「21Lessons」の中で、友人に勧められ参加したヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーとは古代インドのパーリ語で「物事をありのままに観察する」の意)講座についてこう述べています。

(「21Lessons」400P)
それまでは、瞑想についてはほとんど何もしらなかったので、ありとあらゆる種類の込み入った神秘的な理論を伴うものだとばかり思っていた。したがって、瞑想の教えがどれほど実践的なものかを知って仰天した。

講習の指導者S・N・ゴエンカは受講生に、足を組んで目を閉じて座らせ、鼻から出たり入ったりする息に注意をすべて向けるように指示した。

「何もしてはいけません」と彼は言い続けた。「息をコントロールしようとしたり、特別な息の仕方をしようとしたりしないでください。それが何であれ、この瞬間の現実をひたすら観察するのです。息が入ってくるときは、今、息が入ってきていると自覚するだけでいいのです。息が出ていくときには、今、息が出ていっているとだけ自覚します。そして、注意が散漫になり、心が記憶や空想の中を漂い始めたら、今、自分の心が息から離れてしまったことを、ただ自覚してください」。

これほど重要なことを教わったのは初めてだった。
(中略)

自分の呼吸を観察していて最初に学んだのは、これまであれほど多くの本を読み、大学であれほど多くの講座に出席してきたのにもかかわらず、自分の心については無知に等しく、心を制御するのがほぼ不可能だということだった。どれほど努力しても、息が自分の鼻を出入りする実状を10秒と観察しないうちに、心がどこかへさまよいだしてしまう。

私は長年、自分が人生の主人であり、自己ブランドのCEOだとばかり思いこんでいた。だが、瞑想を数時間してみただけで、自分をほとんど制御できないことがわかった。私はCEOではなく、せいぜい守衛程度のものだった。

私は自分の体の入口(つまり鼻孔)に立って、出入りするものを何であれただ観察するように言われた。ところが、しばらくすると集中力を失い、持ち場を放棄した。それは目から鱗が落ちるような経験だった。

私は自分の感覚を観察する10日間のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを、自分自身と人間一般について学んだように思う。そして、そうするためには、どんな物語も学説も神話も受け容れる必要はなかった。あるがままの現実を観察するだけでよかった。

私が気づいたうちで最も重要なのは、自分の苦しみの最も深い源泉は自分自身の心のパターンにあるということだった。何かを望み、それが実現しなかったとき、私の心は苦しみを生み出すことで反応する。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身の心によって生み出された精神的な反応だ。これを学ぶことが、さらなる苦しみを生み出すのをやめるための最初のステップとなる。

私は2000年に初めて講習を受けて以来、毎日二時間瞑想するようになり、毎年一か月二か月、長い瞑想修行に行く。瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。

私は毎日少なくとも二時間、実際に現実をありのままに観察するが、残る二十二時間は、電子メールやツイートの処理やかわいい子犬の動画の鑑賞に忙殺される。瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さがなければ、「サピエンス全史」も「ホモ・デウス」も書けなかっただろう。
(中略)

自己観察は昔から難しかったが、時間とともにさらに難しくなっているかもしれない。歴史が展開するにつれ、人間は自分自身についてますます複雑な物語を創り出し、そのせいで、私たちが本当は何者かを知るのもますます困難になった。
(中略)

テクノロジーが進歩するうちに、二つのことが起こった。

第一に、燧石で作ったナイフが徐々に核ミサイルに進化すると、社会秩序を乱すのは、前より危険になった。
第二に、洞窟壁画が長い時間をかけてテレビ放送に進化すると、人々を騙すのが前より簡単になった。

近い将来、アルゴリズムはこの過程の仕上げをし、人々が自分自身についての現実を観察するのをほぼ不可能にするかもしれない。そのときには、私たちが何者で、自分自身について何を知るべきかは、私たちに代わって、アルゴリズムが決めることになるだろう。

あと数年あるいは数十年は、私たちにはまだ選択の余地が残されている、努力をすれば、私たちは自分が本当は何者なのかを、依然としてじっくり吟味することができる。だが、この機会を活用したければ、今すぐそうするしかないのだ。
(引用終了)

私自身はこの4月から、毎日10分、瞑想の時間を持っています。そのたった10分間すら、ひたすら観察することの集中力が続かないことを実感しています。