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一人芝居を終えて書く文章 #1.1

前回の記事(https://note.com/itak0813/n/nd3e38c13964c)の続きです。この文章は、自分自身の実践を通じて「俳優が演劇制作に主体的に関わるための技術や姿勢」について書いていく予定です。

前回の記事をおさらいすると、不定深度は参加者(俳優)が興味・関心に沿って主体的に創作ができる場所になっており、私は「喋りながら動く」アプローチの研究・発表の場所として利用していた、というお話でした。

今回の記事では、俳優が主体的に創作に参加している状況のねじれについて書いていきます。

なんでこんなに大事なことを俺一人に任せてるの?

自分の興味に従って実験的アプローチを試すことができるのは嬉しい。東野さんも、作品に他者の創意が持ち込まれることを喜ばしく思っている。ウィンウィンのように見える。ただ、放置されるのは困る。

仮にも本公演で、実験的アプローチを「実験」のまま差し出せるほど私は胆力がなかったので、何かしらの「落としどころ」「着地点」を探していました。しかし、東野さんは、(当然)私が持ち込んだアプローチのことをよく知らないので、アウトプットの着地点を想定していません。従って、私が実験を持ち込んだ者としての責任を取り、孤独に着地点を探すことになります。

「喋りながら動く」という、見た目からしても目立って特殊なことをしているのに、それを成立させるすべを私一人で考えなければならないのは重圧でした。
特に、2019年『ゆらり獏』(8/22-8/25@ART THEATER 上野小劇場)では舞台の最前に立って、観客に背を向けて語るというシーンが繰り返され、踊りだけで空間を背負わなければならなかったため、振り付け作りでパンクしていました。

『ゆらり獏』2019夏

信頼されている、というのか、放置されている、というのか。俺にやらせようとしてること、この作品の結構大事なところなんじゃないの?演出つけたくならないの?もっと助けてくれてもいいじゃないですか!

のちに団体コンセプトを更新するほど劇作の中心に近づくことになった「語りの身体」は岩下にとんでもない裁量権を渡すことによって成立していたのでした。とやかく言われないのは嬉しいけど言われなさすぎると不安になる。主体性ってややこしい……。

ただし、この手の不安やネガティブ感情は創作につきものとも言えます。そして、これらは構造的なねじれが生む副次的な反応であり、感情自体に光を当てても得るものは少ないように思えます。
むしろ、時を超えて現在にまで貫通する問題を探ろうとすれば、問題は、集団制作の主導権を握るのは誰か?というところに至ると思います。

創作の成り行き

創作の成り行きを「表現目的」→「表現手段の実行」→「作品」という三段階に分かれるものとします。作品は、表現手段が表現目的とうまく合致していれば、表現目的のストレートな表現として生まれてくるはずです。

創作の成り行き

実際にはそんなうまく行かないので、作品と表現目的がズレることがよくあります。その時ズレの原因は「表現手段を実行するための技術が不足していた」とか「表現手段が表現目的に対して適切ではなかった」「表現目的を形にするための手段が思いつかなかった」というところに求められるでしょう。
演劇にこのプロセスを当てはめると、脚本が要求する演技/演出のあり方が表現目的に当たり、それに合った技術をもった俳優・スタッフが集められ、表現手段を実行していき、最後にはお客さんの前で発表し作品になる、という形になるかと思います。
このように、脚本からトップダウン方式で、脚本を空間に立ち上げていく創作のプロセスを演劇制作の基本形とします。

一方で、不定深度の「俳優が主体的に参加する」創作状況は基本形と異なります。(図:不定深度の創作のねじれ)
私が外から持ち込んだ「表現手段Z'」が東野さんの「表現目的A」とマッチせず、また切り捨てられもせず、最後まですり抜けて「作品」に辿り着いてしまっていました。
なぜ「表現手段Z'」が「表現目的A」とマッチしないかというと、「表現手段Z'」は他劇団が「表現目的Z」を表現するために開発したものであり、東野さんの「表現目的A」を表現するためのものではないからです。当然ですが。

不定深度の創作のねじれ

これ、何かに似ていると思ったら、あれです。明治期に西洋文明を取り入れようとしたけど、文化的な厚みがないから表層の真似にしかならなくて空洞化したってやつに似てます。翻訳文化の悪です。
全く同じです。表現の花だけを見て、即「やりたい!」と不定深度に持ち込んでみたけど、根っこや茎がないから、マッチしない、させられない。東野さん自身、岩下に踊らせる理由をはっきり言語化できる状況ではなかったように思います。

私たちが当時しなければならなかったことは、他所から持ち込んできた手法を、全く別のテキストに持ち込む「ズレ」や「違和感」を認識し、新しく解釈しなおすことでした。それは、別の言い方をすると、特定のテキスト・文脈に乗っかって開発された「手法」を別のテキストにも利用可能な「技術」に変換することとも言えます。

言い訳①

このような状況は反省はしつつ、当時の我々を貶めるつもりはありません。こういうことが、演劇制作の現場では特に、意外とよくあるのではないか、という推測の元に書いています。

というのも、作・演出(主宰まで兼ねるとさらに)は作品の決定権を強く持っているゆえ基本的に孤独で不安であり、他者の創意が発揮されることを待ち望んでいます。一方で俳優は演出家の駒になりきれないエゴを持ち合わせており自分の能力が発揮されることを待ち望んでいます。
この二つの利害が一致しているとき、創作現場に一見間抜けな(けど真剣な)ねじれが生まれてしまうのではないでしょうか。

言い訳②

今回、建設的で手堅い「基本形」の創作プロセスと不定深度の創作プロセスとを対比する書き方をしましたが、これはよその諸団体の苦悩を漂白するようなもので、ちょっと雑すぎるところがあります。すみませんがわかりやすさのためそうしました。
そして不定深度も全ての側面でから回っているわけでもありません、多くの場面では建設的に創作しています。一応。

次回予告

今回の公演「真空に臨む」においては、いつもの翻訳失敗事件が起こらなかったように思います。少なくとも、表面化しなかった、とは言えそうです。
公演の立て付け、俳優の参加の仕方、そして技術の発達が構造的ねじれを緩ませました。次回以降の記事ではこれらを書いていきます。よろしくお願いします。

正味自分(たち)の恥を書き連ねるのはつらいのですが、誰かの思考を促していると信じ、引き続き書きます。反応くれると嬉しいです!
みんな何か考えた?考えてたら嬉しい。

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