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未来のフレンチトースト【第五話】

引っ越して1ヶ月、段ボールが少しずつ片付いた。

人生で2度目の引っ越し、あの日のまま時間だけが止まった私の街に、ようやく帰ってきた。

アパートの窓から覗く景色はいろんな時間が蘇る。懐かしいといえるほど記憶が残っているわけではないけれど、電線がいくそうにも張り巡らされ、当時、のみ込まれそうだった大きな商店街は少しこじんまりとして見えた。

「ただいま」
ここから、私だけの本当の人生を始めるんだ。


待ちに待った日曜日。

社会人になって初めてのお給料を握りしめ、私は扉の前に立っていた。
あの日、ここに必ず戻って来ようと誓った場所。

「こんにちは」


「いらっしゃいませ」

「カウンター座ってもいいですか?」

「お好きなお席へ、どうぞ」

「ありがとうございます。フレンチトーストとオレンジジュースお願いします」

「かしこまりました」

カウンター越しの男性が奥へ入っていく後ろ姿に、懐かしさが残る。

同時に卵の焼ける香りが鼻先をくすぐり始めた。あの時と同じ香りだ。


7年前。

「ごめんな、これからパパ仕事が忙しくなる。少しの間、おばあちゃんのお家で暮らしてほしい。必ず会いにいくから」と小学生だった私は、父から突然の引っ越しを告げられた。

母がいなくなってから父と2人。仕事で遊んでもらえることがなくても、いつも優しい父がいてくれるだけで幸せだった。
祖母との暮らしが始まったら、父とはもう会えなくなるような気がした。
母も、父もいなくなる。

「いやだ、みんな私の前からいなくなっちゃう」大好きな父と離れて暮らす寂しさを受け入れられず、大声をあげ私は家を飛び出した。私なりの抵抗だった。

勢いで飛び出し飲み込まれそうな大きな商店街に歩き疲れ、瞼いっぱいに溜めた涙を堪えながらベンチに座り込んでいる時だった。

「おはよう、どうしたの?おうちの人いないの?」
エプロン姿の女性に声をかけられた。

「雨も降ってきたし、ここにいたらかぜ引いちゃうね、少し中に入らない?」と喫茶店の入り口に目線を配る。

「あめ?」 視線を上げると小さな粒がアスファルトを叩き始めていた。

「どうぞ」と声をかけられるまま、喫茶店へ。女性と店内へ入ると、香ばしい優しい香りに包まれた。

「ちょっとまってて温かいもの出すね、お家わかる?」

女性に担がれ、自分では座れない少し高めのカウンター席へ座らせてもらう。

「いらっしゃいませ、1人でお出かけ?」

カウンターの中にいた男性の言葉に、朝の父との会話を思い出していた。

「けんかしたの」と声にもならない声で呟くのが精一杯だった。

堪えていた感情が溢れ出て嗚咽が漏れる。

「朝ごはん、まだでしょ?」甘い香りと優しい声。

涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげると、エプロンの女性がフレンチトーストとオレンジジュースを持って立っていた。

バターと蜂蜜の香り。

「まずは腹ごしらえ、ね。アイスクリームつきよ」とニコニコしながらエプロンの女性が隣に座ってくれた。

ふと、父が毎日作ってくれる歪なおむすびを思い出した。一緒に朝ごはんを食べられる日もあと少し、この抵抗がなんの意味も持たないことは、小学生の私でもわかってる。

父と離れる不安に感情があふれ出る。

「涙も全部流して、遠慮しないで全部食べて。喧嘩ってエネルギーが必要なの。気持ちをぶつけるって信用してないとできなかったりするじゃない?きっと精一杯ぶつけてきたんだろうし、今から帰るエネルギーも必要よ」

「しんよう?」小学生の私には、まだいまいち分からなかった。

「そうよ、信用。いつかわかるよ。おうちの方も心配してるだろうから、食べたら帰れる?」

「はい」

「今日1日、これから数時間の未来だけでも君が笑って過ごせるように、私たちが勝手に作った朝ごはんだから、お代はいらない。笑って過ごすんだよ」と送り出してくれた。

帰り道、大人になったら必ずこの街へ戻ってこようと誓った。


「お待たせしました、アイスクリームつき」

「えっ?」

奥から、エプロンの女性がフレンチトーストとオレンジジュースを運んできてくれた。あの日と一緒だ、アイスクリームが添えられてバターの艶と粉砂糖をまとっている。

「入って来てくれた時すぐわかったよ。面影残ってる」

言葉に詰まり、視界がにじむ。

「まさか来てくれるなんて。覚えててくれてると思ってなくて、私たちもびっくりしちゃった」

「覚えてくださっていたなんて」

「忘れないよ、あんな可愛らしいお客さま」

「あの日の帰り道、必ずここへ帰ってこようと決めていました。必ず、お二人に会いに行こうと...」言葉がふるえる。

「ありがとう。そう言ってくれると、やってて良かったって思う」

「私もあの日、声をかけていただいて本当に感謝しているんです。この街に戻ってくる事すら諦めていたかもしれません。今日は、初任給を握りしめて来ました」

「そっかぁ、就職したのね、あの日から何年立った?」

「7年です」

「7年かぁ、この辺りに住んでるの?」

「はい、丘の上のアパートに。あの後この街を引っ越すことになって遠く離れていたんですけど、最近戻って来たんです。家族は誰も居なくなってしまって1人だけど、この街で、新たな自分の人生を歩みたいんです」

「ここがあるから1人だなんて思わなくて大丈夫。いつでも寄って、ここへ帰って来たっていいのよ」

引っ越しを最後に会えずしまいになった父のこと、ひとりぼっちになった日のこと、ひとりで歩く未来が心細くて、怖くて、怯えた日のこと。

今日まで夜が明けることを何度も拒んだ。誰かに近づけば、また失う怖さも抱えなければと不安になったこの7年間が、鮮明に目の前を過ぎる。

1人じゃないと言ってくれる人が私にもまだいるんだと思えた、今日。あの日のフレンチトーストが、私をしっかりと未来へ連れてきてくれたんだ。

                      22.4.26 いたちょこ

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