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ベルと紫太郎日光編の背景事情解説

先月からベルと紫太郎は日光編と銘打って、二人(と伊之助)が日光へ旅行へ行くお話となっております。

劇中ではあえて注釈を省いて行くスタイルをとっているため、何故ベルが上野から日光へ行けたのか、何故日光からタクシー移動をしているのかなどは一切解説をしておりません。なので、こちらの記事で実際の史料を交えながらベルたちが利用した交通機関について解説をしていきたいと思います。

①当時は上野から日光まで直通電車が通っていた

現在東京から日光へ直通で行く電車は、東武日光線ですね。実は東武日光線が開通したのは昭和4年のことであり、それまでは国鉄日光線(現在の宇都宮〜日光間を走っているJR日光線のことです)が上野に乗り入れていたので、上野から一本で日光へ行くことができました。ちなみに上野〜日光間の直通運転が始まったのは大正2年だそうです。

私が想定したのは劇中の大正11年の秋、大体10月下旬だったので、大宮の鉄道博物館の資料室(ライブラリ)におねがいをして(※資料室の利用は平日は予約制です)その時期の時刻表や料金表を探していただきました。鉄道博物館のライブラリの史料はコピー、撮影不可なので私が書き写したデータを掲載します。

②大正11年の10月頃の日光線の上野〜日光までの所要時間は約4時間20分

劇中でベルが乗車した列車は朝の5時に上野発〜9時17分日光着の列車です。

…現在の我々からすると長いな!と感じますが、当時の人々にとっては画期的に早く感じたようです。その証拠に、大正時代から『週末旅行』(所謂一泊旅行)が流行し、その目的地として日光は人気を集めました。=東京から手軽に行けるという認識が強く持たれていた事が伺えます。

当時の週末旅行案内の本にも日光は必ず紹介されております。

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↑『一泊旅行土曜から日曜』松川二郎著 東文堂 大正8年発行 より引用

花袋も日光へ週末旅行へ行ったことを書き残しております。

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『一日の行楽』田山花袋著 博文館 大正7年発行より引用

両者ともタイトルからして一泊しかする気ねえ!って感じですね。昔の人はタフだなぁ。

また、ベルが宇都宮で列車の窓越しにお弁当を買う場面ですが、当時のダイヤを見ると宇都宮に五分ほど停車しているため、このような描写にいたしました。実際、宇都宮駅は駅弁売りが大変多く、やってくる列車を待ち構えていたようですね。戦前の宇都宮駅の駅弁の包装紙は現在でも図鑑などで目にすることができます。なるべく当時の弁当売りや土瓶(売り)の道具を調べて描きましたが、土瓶に移す前のお茶の保温容器は結構ビックリしました。炭火で保温する仕組みのタンクにお茶を入れておいて、それを蛇口から出すというシロモノです。
形状を本誌でご覧になってない方は、今後出るコミックスで確認してみてくださいね。

逆に駅弁のメッカのイメージのある上野は、大正11年に駅構内で弁当を販売していた確固たる記録が見つからなかったので、上野で買う描写は避けました。大正時代、なぜか数年そのような時期があったようですが、そっちまで調べ始めると本筋に戻れなくなるのでとりあえず上野駅の駅弁事情は触れないでおきました。(でもいつかは解き明かしたいです)

あれ?旅行客車なのに食堂車はないの?と思われる方も多いとおもいますが、国鉄日光線に食堂車ができたのは昭和5年からです。なのでベルも紫太郎も駅弁を買い求めているわけでございます。

③現在の国鉄日光線駅舎の二階は、一等車の客専用の特別待合室だった。

日光編①のラストシーンでベルが日光駅舎の中で紫太郎と落ち合うことが出来ずに泣いてしまう場面がありすが、その理由はこれ。三等車で来たベルは二階の特別待合室を知らず、一方の一等車利用の紫太郎は二回しか待合室がないと思っていたためです。

現在のJR日光駅舎の二階の様子↓

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ちなみに、二階の特別待合室は現在誰でも上がるように解放されており、パネル展示など行っております。
しかし部屋の隅々の調度はいかにも貴賓を迎える作りとなっており、当時の雰囲気を味わうことができました。

④日光市内の移動は自動車(タクシー)が富裕層に人気

日光自動車と呼ばれるタクシー会社が開業したのは大正2年からです。
日光は明治から外国人が避暑地として利用していたこともあり、タクシーはかなり重宝されたようです。市街地だけでも半里はありますから、効率的に回るにはタクシーは便利だったでしょうね。
他にも日光電気軌道と呼ばれる市電も走っていました。他にも当時の写真を見ると駅前に人力車が沢山待機していたりします。とにかく、予算に合わせて市街を回る交通手段は色々あったようですね。

大正11年の日光自動車のパンフレットを手に入れたので掲載します。
サイズは本当に手のひらサイズの小さなパンフレットです。

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表紙。最高だなおい!

裏面一覧

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裏面の日光市街の簡易マップ部分。

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この地図を見ると近いように思えたので、実際に東武日光駅から神橋まで歩いてみましたが、かなり早足でも30分以上かかりました。
つまり今も当時も足での移動はかなり無理があると。何らかの交通機関を利用しないと、文字通り日が暮れてしまいます。

口上書きと連絡先部分。

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タクシー利用料金部分。特筆すべきなのは車種により差があることですね。

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主な客層は外国人や富裕層だったので、やはり車種にこだわるお客様が多かったのかな。

⑤大正11年当時、現在のいろは坂は車が通れなかった。

当時、日光山の中禅寺湖〜湯元へ行くには、現在の第一いろは坂の元となった道を登る必要がありました。
(当時は中禅寺坂などと呼ばれていたそうです)
この坂が拡幅され、乗り合い自動車が通れるようになったのは大正14年からです。そのため、タクシーも市電もこの坂の麓の馬返し駅が終着点となります。
ここからは徒歩、乗り合い馬車、人力車などで登山することになります。ベルたちは紅葉狩りも兼ねて徒歩を選びますが果たして…!?

ちなみに、第一いろは坂は、現在は下り専用道路になったため登ることはできません。また、ベルたちが歩く徒歩ルート自体も『旧道』と呼ばれ、現在の第一いろは坂とはルートが一致しないということです。(『新道』と呼ばれる道もすでに存在していたので、自動車乗り入れ用の整備対象になったのはこの新道であると思われます。旧道と新道はそれ自体が離れていたという記述も見受けられます。)なので『旧道』が具体的にどんな道だったのかはすでに曖昧なので、当時の旧道(中禅寺坂)を登った人たちの手記を読んで色々想像するしかありませんが、なかなか険しい道のりだったようです。

以上、ベルと紫太郎の日光編のバックグラウンドについてかいつまんで書かせていただきました。交通手段や道が当時とかなり違うため、調べるほど面白い土地です。



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