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"すっぱいぶどう"が甘い事を指摘する残酷さ~『理解のある彼くん』問題に添えて~

お騒がせして申し訳ない。心配してくださった方、ありがとう。あれ以上TwitterのTLでやると、しんどい人もいるだろうと思ったので、まとめてここに書きますね。

『理解のある彼くん』というのをご存知だろうか。発達障害や精神障害の生きづらさを乗り越えて幸せになった女性の自伝的ストーリーには、かならず全てを受け入れてくれる理解のある恋人が存在する、というものだ。

ここ最近、女性発信のストーリーに、この言葉を投げかける人をみかけるようになった。その多くは男性当事者であり、「女だから恵まれただけだ」「男はこうはいかない」という理屈に続く事が珍しくない。

これについて、先日、私は以下のようなツイートをした。『理解のある彼くん』という言葉の影にある「女性だからだ」という揶揄いを否定するものだ。

このツイートの中で「理解のある女性パートナーを得てる男性当事者もいっぱいいる」と書いたところ、一部の方の逆鱗に触れたようで「データを出せ!」という反応をたくさんいただいた。

本音をいうと、とてもめんどくさい。めちゃくちゃめんどくさい。なぜならこれは、社会問題でもなければ男女構造の対立でもないし、どちらが大変かという比較検討の話でもない。そもそもメンタルハックの話である。そこが読み取れていない人達相手に、ここからの長い説明を理解してもらえる可能性はかなり低いからだ。あぁ、めんどくさいめんどくさい。

それでも私は、中にはこれがわかる人もいるかもしれないなぁ…という気持ちで、これを書いておくことにする。



まず、統計やデータというのはとても便利で不便なものである。なぜなら、全ての問題や存在を数値化することなど不可能だからだ。その問題や事柄に対してしっかり調べた人がいなければ、データも統計も存在しない。さらに、調べるためには問題の定義や根底の理解が必要になる。

ご存知の方も多いと思うが、発達障害の世界はこの数年で目まぐるしく変化している最中だ。しかも、この件に関しては透明化される女性のケア労働であったり、成人当事者の診断の難しさ、対象者の集計方法など、数値化するにはあまりに困難な壁が存在する。

こういうことからも統計が万能ではないということは、想像できるものだ。しかし、数値のデータがないからといって、それが存在しないという理由にはならない。あくまでも現時点でデータがないだけなのである。

さらに話を進める。社会の中にそれが多数存在するかどうかを知るには、別に統計だけに頼る必要はない。

・カサンドラ症候群という言葉が生まれるのはなぜ?
・発達障害児の育児支援の場において、「自分と同じだから障害でない」と子どもの障害受容を拒む父親がたびたび報告されるのはなぜ?
・発達障害の遺伝的傾向が指摘されるのはなぜ?
・ASDの夫とADHDの妻の組み合わせを語る医師発信の記事が存在するのはなぜ?

ここまでに共有されてきた多くの事例や現場の経験から鑑みれば、「理解あるパートナーに助けられている男性発達障害者は存在する」というのは、プロとして支援に関わる方々からの同意も得られるはずだ。

ちなみに、「カサンドラは『理解あるパートナー』とは言えないのではないか」という指摘もありそうなので更に補足する。これらは問題になるからわかりやすい名称がつくのである。問題になっていないカップルには名前がつかない。支援者や医師のもとに相談にも行かない。発達障害だけどうまく行っているカップルは暗数として存在するのだ。もし、発達障害だけどうまくいっているカップルや家族を呼ぶ呼称ができて広まれば、それを自称する人たちが一気に可視化されるだろう。

ちなみに蛇足だけれど、超ミクロな視点でいえば、「理解あるパートナーを得ている発達障害の男性当事者」が、少なくともこの世に確実に一人は存在していることも私は知っている。なぜなら、私の隣で毎晩寝ているからだ。(もっといえば、私が直接知り合いである○○さんご夫婦とか、××さんのお宅とか、いつもTwitterのTLでお子さんとそっくりの旦那さんの特性の話を面白おかしく伝えてくれる○○さんとか、DMで相談をくれるフォロワーの××さんカップルとかあるけど、キリがないので割愛)

このように、どれだけ泣きながら存在を否定しても、統計データという具体的数値がなくても「発達障害だけど理解あるパートナーを得ている男性」が複数存在している事は、様々な事象やTwitterで日常的に呟かれる夫婦の愚痴やのろけや家族や育児の悩みや喜びの中にも、現れてしまっているのだ。

「データがないのだから存在しないだろ」と叫ぶ事は、自分が統計やデータでしか物事を見ることができないという視野の狭さ、それなのに統計やデータとはなんなのかという事が理解できていないことまで、悲しいほど露呈してしまっているのである。



そもそもこれは、メンタルハックの話である。ついでなので、本題についても補足をしておこうと思う。

なぜ、『理解あるパートナーを得ている男性発達障害者』の存在を認めることができないのか?この問題を語る中で、私に「すっぱいぶどうは生きるための知恵」と教えてくれた人がいた。『すっぱいぶどう』とは、有名なイソップ物語の寓話である。

お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。

引用元:Wikipedia『すっぱい葡萄

まさに、この指摘はもっともだと思う。自分には手に入らない甘い果実が存在する事を受け入れるには心が苦しすぎるから、「どうせ、すっぱいぶどうだろう」と、このキツネのように悪態をつくことで、必死に自分を守っているのだ。

しかし悲しいことに、こうやって苦しい自分の心を守るために、苦しい別の他人の存在自体をないものにしてしまう、その心こそ、あなたが愛されない理由なのだ。"あなた方"ではない。あくまでも、"あなた"が愛されない理由だ。

だから私はこのツイートを書いた。

急所を突かれ、追い詰められたネズミ(この場合はキツネか?)は噛みつくだろう。溺れるものが必死に掴む藁を奪うのは厳しすぎる。私はそれをわかっていながら、あの日、このツイートを書いた。だから、私の指摘がとても残酷な行為だという批判は、甘んじて受ける。

苦しい過程を戦い抜いて生き延びた人たちの自伝的ストーリー。そこにはたくさんの運と努力がぐちゃぐちゃに混ざり合って輝いている。そんな人達の成功事例は、そもそもマウントでもなければ自慢でもない。

書き手が女性であれ男性であれ、当事者であれ支援者であれ、それぞれの環境や経験は違っても、それらはいわば生き抜くための攻略方法の共有であり、同類に向けたエールであり、理解者を増やすための営業ツールであり、発展していく社会の財産である。だからどうか、表現の力を持つ人たちは、『理解のある彼くん』などというすっぱいぶどう的批判を目にして、それらを表に出すことを萎縮しないで欲しいと願う。その発信が希望や救いになる人達も存在するからだ。

そして今日も、この社会には悩み迷いながら身近な人の発達障害と向き合っている人たちがいる。向き合う立場には、当事者もいれば支援者もいるだろう。その中には、自分の愛する男性当事者を理解したいと、もがく女性達もいる。(もちろんその逆もいる)

そこにいるたくさんの人たちの悩みや苦しみや寄り添いや誠意を『すっぱいぶどう』ということにして存在しない事にされてたまるか。成功事例という攻略方法の共有を止めてたまるか。強く強く思う。だから私は、それが一部の人にとって残酷な指摘であると認識しながらも、譲らないし黙っていられないのだ。

私は今日も、苦しい過程で戦う人にエールを送る。そこを抜けた人に賞賛を送る。その経験を言葉や絵にして見せてくれる人に感謝を送る。そのひとつひとつが、これからを生きる人達の道を作るだろう。

そしてこの先も、「そんなものは、すっぱいぶどうだ」と必死に唾を吐く人を見ると「でもそれは甘いのだ」と、言うと思う。さらに諦められない私は、私が知るささやかなヒントをそこに添えるだろう。なぜならキツネであるあなたもまた、苦しい過程で戦う人だからだ。もしかしたら、あなたがぶどうを手に入れるための道具のひとつとして、これらも使えるかもしれない。

残念ながら、この世はおそろしいほどに不平等である。知恵と工夫でできるだけフラットにしようとするのが福祉でありバリアフリーやジェンダーレスであり相互理解である。それらを必死で実現しようとしている人たちはいるし、私もそんな未来を夢見るひとりだが、社会が真っ平になる日は、私たちが生きている時代には難しいだろう。

そんな諦めと同居しながら、同じ社会で、それぞれの場所で、私たちは共に生きていくのだ。

ご支援は私の生きる糧でございます。ありがとうございます🙏✨