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さよなら、母の愛

その日の私は児童精神科からの帰りだった。乗りなれた電車の座席で、最寄り駅に向かう風景をひとりでぼんやり眺めていたら、突然なぜか涙がこぼれてたので、周りに気付かれないように慌ててうつむいて、鼻を啜った。この涙はなんだろう。

児童精神科には、我が家は約10年ほどお世話になっている。初めてそのクリニックにいったのは、長女が3歳の誕生日を迎えた頃。1歳半検診で発語の遅れを指摘され、どうしていいかわからず混乱しながらあちこち奔走していた当時。同じような子どもを持つママさんから紹介されたのがきっかけだった。

診察室に入ると、そこにいたのは個性的な風貌をした独特で温厚な話し口の男性の先生だった。長女のことを「部屋に入ってきただけでわかる自閉症です」と説明し、「僕も発達障害なんですよ」と言ったあと、「ほっほっほ」と目を細めて笑った。

あっという間の10年だったと思う。最初は「ぽっぽ」や「わんわん」程度の単語を数個しか喋ることのなかった長女も、不明瞭な二語文を話し、少しずつ発音が上達し、会話らしい会話ができるようになった。

長女にとって初めての集団生活だった保育園では、優しい先生と友達に囲まれ、愛されチャンピオンと呼ばれるぐらいにたくさんの愛情を注いでもらった。

小学校の入学式。1年生になれる喜びで長女がキラキラ輝いていたあの日。私と夫は、あの希望に満ちた眼差しが少しでも続けばいいと願いながら、それはきっと無理だろうと考えていた。長女の発達は周囲に比べて明らかに差があり、異質に見えた。そのうち周りに嫌がられたりするのではないか。子どもは残酷だ。いじめられるかもしれない。勝手に思い込んで不安になった。

しかしそんな親の身勝手な予想はいい意味で裏切られ、長女の輝く眼差しはそのままに、笑顔で今日も学校に向かう6年生になった。学校生活では相変わらず独特マイペースな長女だったが、それを認めて尊重してくれる理解ある学校と先生、クラスメイトに恵まれたことが大きかった。

今回のクリニックの受診は、中学入学に向けて事前に受けた発達検査の結果を聞きに行くためだった。長女本人は学校に行ったため、私と夫のふたりだけで先生の話を聞いた。

まず、発達検査の結果の数値が全体的に上がっていることを伝えられた。知能面の数値はあがっているが、自閉症の特性は色濃く残っていること、そこに本人の困難があるとの説明も受けた。確かに、長女には現在もコミュニケーション面の拙さと難しさを感じていたので、先生からの説明は納得のいくものだった。

中学校とは入学の前に支援の相談のための面談をする事になっている。その時に、家庭から中学校の方になにを伝えるべきかと私が聞くと、「ようは、いままでと同じように、本人を認め尊重してもらうことです。大切な一人として中学校生活でも大事にしてもらってください。」と、先生は言った。

「この年頃だと、逆に検査結果の数値が下がることがあるんです。それは、本人の生活環境のなかで困難を強く感じていると起こりやすい。長女さんの場合は数値が上がっていますね。それは、ご本人の環境がいいということの現れでもあるとおもいますよ。いい成長をしていますね。」と、先生は今日も「ほっほっほ」と笑った。それを聞いて、ああ、うちの長女はここまでずっと大切にしてもらえてきたんだと実感し、嬉しくて涙がでた。

長女の成長を親として見守った10年は、私自身の成長の10年でもあった。長女が自閉症と診断されたその日から、私は自閉症と発達障害の世界を学び始めた。その過程で、私達夫婦は自分たちもまた、それぞれがタイプこそち違うものの、発達障害の特性をもつ当事者であることに気がつくことになった。

私達夫婦の間には、なんだかよくわからない溝のようなものがあると、ずっと漠然と感じていた。夫婦仲はいい。気の合う友人でもある。恋人としての愛情もある。でもよくわからない漠然とした、近寄りきれないわかり合えないと感じる、なぞの溝。その溝の正体がそれぞれの発達障害の特性だった。

私達は同じ世界に生きているのに、そしてすぐとなりにいるのに、持っている感覚が全く違う。見えている世界が違う。それに気がついた私達夫婦は、お互いの違いを知ることに夢中になり、自分の感覚を言葉にし確認する作業を繰り返した。

・小さな物音でも気がつく夫/全く気がつけない妻
・ベッド以外では眠れない夫/床でも椅子でもどこでもすぐ寝る妻
・隣の席の会話まで聞いてしまう夫/目の前の相手の話も聞いていない妻
・文章を少し読むだけでどっと疲れる夫/息をするように活字を追う妻
・雨を痛いと感じる夫/傘をさすことをめんどくさがる妻
・いつも「最悪の場合」を考える夫/「なんとかなるさ」とライトな妻
・死にたいなどと一度も思ったことのない夫/いつも心のどこかで死にたいと思っている妻

その違いの背景にあるものを問い、言葉にすることは、自分を知り、相手を知り、お互いの違いを認め合う行為にほかならなかった。

私達は違うのだ。私達の間にあった溝は決して無くなることはないけれど、得体のしれなかった溝の正体も含めて、夫のことも自分のことも愛しいと思った。そして、夫の方からも同じぐらい(もしくはそれ以上の)愛情をもらった。

私には友達がいなかった。大学進学と同時に地元を離れたあと、この土地でうまく人間関係が作れなかった。話し相手は夫だけ。それは時間が経つに連れ私のコンプレックスになり、私はさらに人と付き合うことが怖くなった。

長女を産んでからは、いわゆるママ友を作ろうと頑張ったこともあったが、まったくもってうまく行かなかった。気軽な世間話どころか、挨拶ですらうまくできず、緊張して口ごもって挙動不審になった。

完全なコミュ障と化してガチガチになっていた私だったが、長女の診断をきっかけに夫婦でお互いの違いを言葉にする中で、はっきりと自分の苦手と得意を主張できるようにもなった。苦手なことはなるべく避けた。得意なことは積極的に取り組んだ。そのフィールドでなら、私は出来る。それは私の自信につながった。胸を張った。すこしだけ人間関係がうまくいくようになった。

そんなことを数年続けるうちに、コミュ障だった私にも、友人ができた。私を必要としてくれる人達ができた。できる私を「すごいね!」と褒めて、できない私を「大丈夫だよ」と助けてくれる、そんな理解ある仲間に恵まれた。だから私はまた張り切った。そんな私を、夫は応援してくれた。私の世界はどんどん色づいて変わっていった。

その中で、まったくかわらないものがあった。
実家の母である。

私の実母は、家族に対する自他境界がどろどろに溶けたような人だった。「家族のために」と言いながらいつも相手の意思などお構いなしであれこれ動いては、自分の理想通りにいかないと爆発する人だった。いわゆる過干渉というものである。

振り返ってみれば、幼少期から、母との親子関係はしんどいものだったと思う。母はとにかく自分がなりたかった理想の姿を娘に投影した。服装の好みや選ぶ色のようなささやかな事から、進路や職業選択という大きなことまで、挙げればキリがない。

成長するなかで、いよいよ娘の私がその理想通りに育たないとなると、私の容姿や好みや人生の選択を、何度もみっともないと嘲笑したり、お前はなにもできないと否定した。そして必ず「これもあなたのため」と言った。「愛情があるから、あえてお母さんが言ってあげているの」というのが母の主張だった。

私は、母からの否定や嘲笑を、なにも言わずいつも聞いていた。なんせ、親子関係なんてものは物心付く前から始まっているのである。親というのはそんなものだと思っていた。反論すれば、母は爆発する人だ。下手に刺激したくない。私だけでなく、実家の家族はだれも母には反論をしない。通じないからだ。

そうやって母は「愛している」と言いながら、娘個人の尊厳を無自覚に踏み続けていた。

はじめは小さな違和感だった。夫や友人達が「あなたらしい」「すばらしい」と褒めてくれる私の姿は、母の中にはまったくいないらしい。それどころか、母の中の娘の私は、いつまでもダメでみっともなくて何もできないくせに偉そうでどうしようもない姿らしい。

そして母は私を笑う。「どうしようもないから、お母さんがやってあげるのよ」と言って。

しかし、はじめは踏まれていることに気づけていなかった娘の私は、自分を知り、自分を大事にしてくれる環境に恵まれた結果、自分が母に踏みつけられているということに気がついてしまった。

私は本当にダメでみっともなくて何もできないのだろうか?
そんなことはないよ。

私の心が叫んでいた。

違和感に気づいてからは、あっという間に限界が来た。ある日、いつもと同じ母からの否定と嘲笑に我慢しきれなかった私のささやかな反抗をきっかけに母娘の関係は爆発した。私はそのまま絶縁の手段をとった。母とはそれ以来、一度も会っていないし連絡もしていない。

母と絶縁してから、私は母との親子関係を何度も振り返った。それは、実親との縁を切るという大きな出来事を自分の中で消化するためでもあったし、踏みつけられていた自分自身の尊厳を取り戻すためにも必要なことでもあった。

私は母に踏みつけられていた。母はおかしかった。私達母娘の関係は歪んでいた。
でも愛はあった。愛されていた。母はいつも私に「愛している」と言っていた。

母との親子関係を振り返る時、私の心はいつもそこをぐるぐる回っていた。

でも、今日の私は少し違った。児童精神科の先生との話の中で印象に残るセリフがあった。「言葉を表面通りに、そのまま受け取ってしまう特性」。いわゆる、自閉症スペクトラムの代表的な特性のひとつだ。言葉の裏の意味がわからないというもの。

私は、子どもを育てる中で、自分自身の中にも薄っすらと、この傾向があるのを知っていた。私には言葉を表面通りに受け取ってしまう傾向がある。言葉を、表面通りに。

私は母に踏みつけられていた。母はおかしかった。私達母娘の関係は歪んでいた。
でも愛はあった。愛されていた。母はいつも私に「愛している」と言っていた。
いや、本当にそうだろうか?母すらも「愛だ」と思い込んでいただけで、「愛している」といわれていたから、私も「愛されていた」と思い込んでいるだけで、あれは本当に我が子への愛だったといえるのか?

目の前に、得体のしれない大きな箱が現れたようだった。
私の頭の中で、大きな警告音がなった気がした。
これはやばい。直感がそういっていた。
その蓋を開けてはいけない。不安で胸がバクバクした。
でも我慢できなかった。結局、その蓋を開けずにはいられなかった。
私はその蓋を開けてしまった。

例えば、「お前を愛しているからだ」といいながら、自分が気に入らないと殴る蹴るの暴行をパートナーに加えるDV男に対して、彼女の側が「でも彼は私のことを愛しているの」と、言うとする。よくある話だ。

私はそれを聞いたとき、迷わず「そんな物は愛じゃないでしょ」と即答する自信がある。大切な相手を傷つけるその行為は愛ではない。たとえ暴力を振るう本人がそう主張しても、だ。

でも、今の私は、自分の母に踏みつけられ傷つけられてきたと自覚しているというのに、母の私に対するそれらの行為は「愛だった」と認識している。なぜなら、母がそれを「愛だ」と主張していたからだ。

矛盾している。明らかに矛盾している。母から受けてきたあれらの行為は、愛ではないではないか。愛ではないのだ。私はあれを愛と呼ばない。気づいてしまった。気がついてしまった。

その瞬間、自分の中に大きな穴を見た気がした。わかったと思った。見つけたと思った。涙がでた。私には愛された実感がないのだ。その空っぽな穴の中で、私が泣いているのだ。電車のなかでこぼれたあの涙はこれだと感じた。愛されて育つ長女を見て、愛されなかった私が羨ましくて泣いたのだ。

気がつけばそれは嗚咽となり、ぐしゃぐしゃになってシャツに吸い込まれていった。途中からは収集がつかなくなって、タオルを引っ張り出して泣いた。涙と鼻水でわけがわからないくらいぐちゃぐちゃになった。それでもしつこいくらいに泣いた。

ぐしゃぐしゃのタオルとシャツを眺めながら、子どもたちが寝たあとでよかったなぁと、ぼんやり思った。自分の母親が泣く姿を子どもたちが見たら、驚いて不安がるだろう。なぜ泣いているのか聞かれたとき、まだちょっと上手に伝えられそうもない。娘だった私は、いまや母でもあるのだなぁと思った。

この思考の過程を、一日をかけて、ぽろぽろとTwitterでこぼしていたら、それを見た誰かが言った。「愛の形が違うのだ」と。

そうか。親子で思う愛の形は、同じでなくていいのだ。
母はそれを間違いなく愛だったというだろう。
でも私はもう、それを愛だったとはいわない。
母は私ではない。私は母ではない。私達は違う人間だ。

さよなら、母の愛。私は次に行く。

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