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空と宇宙のはざまに

どこでも住めるとしたら?
と問われて胸がときめいた。僕の答えが非現実的なのは承知のうえで、この胸のときめきのままに答えてみる。


どこでも住めるとしたら、僕は空と宇宙のあいだに住んでみたい。

僕は小学生の頃から、ぼんやりとそんなことを考えていた。
小学校5年生の頃だったと思う。図工の授業で「自分の家の窓から見える景色を描く」という課題が出た。実際に自分の家から見える景色を描いてもいいし、家からこんな景色が見えたらいいな、という空想の絵でも構わないという。

そのとき僕は、「空と宇宙のあいだに住んだ自分」とかいうタイトルで絵を描いた。
僕は絵を描くのが苦手で図工や美術の成績は良くなかったけれど、その絵だけは描いていてワクワクしたのを今でも覚えている。

空と宇宙の境目について、漠然とした関心が湧いたのはとあるテレビゲームがきっかけだった。
僕は当時「エースコンバット」という戦闘機のゲームにハマっていた。実在する戦闘機を操縦して与えられた指令をクリアしていくゲームだ。
僕はゲームの指令はそっちのけで、戦闘機の高度をどんどん上げて遊ぶのが好きだった。雲を突き抜け、雲海を上から見下ろした。そしてこのまま戦闘機でいっそのこと宇宙まで行ってしまおうと思った。更に高度を上げると周りに雲はほとんど見えなくなり、青かった空が次第に黒みを帯びてくる。ゲームの中ではあるが、そこは空なのか宇宙なのか曖昧な不思議な場所だった。しかし「高度注意」のアラームが鳴ったかと思うと、戦闘機は急に失速して墜落してしまう。
当時の僕には戦闘機が失速する理由がわからなかった。後で調べてみると大気の薄い場所では揚力が働かないからだとか、ジェットエンジンが使えないからだとか、いろんな理由があったようだ。実際、旅客機が飛べるのはせいぜい高度10km程度の対流圏、戦闘機でも高度20km程度の成層圏までが限界らしい。スペースシャトルが飛んでいる宇宙空間は高度400kmだというのだから、宇宙に到達するには果てしなく遠い距離がある。
得てして少年の僕は「空と宇宙の境目には得体の知れない壁がある」ということをテレビゲームを通して知った。
それと同時に、その得体の知れない場所に住んでみたいと思った。

高度20kmの成層圏まで届く超高層マンションを建てたとしたらどうなるだろうか?ビル1階の高さをおよそ3mと見積もると、高さ20kmでは約6000階建のビルになる。エレベーターで最上階に上がるにはどれだけの時間がかかるのだろうか。
一つの階につき10戸の部屋があるとしたら、そのマンションには6万世帯の暮らしがある。
マンションの自治会は東京ドームを超満員にするくらいの人数で行わなければならない。マンションに回覧板の文化があったとしたら大変だ。回覧板が最上階に届く頃にはもはやその回覧は最新情報とは程遠いし、6万戸の認め印をどこに押せばよいのだろう。同じマンションの中で同級生は何人いるのか。人数が多すぎて同じマンションの中で学区域が分かれてしまうかもしれない…。

どうせだからマンションの最上階、6000階に住んでみたい。
住所で部屋番号を書くときはめんどくさい。「60003号室」とか書いて、「ろくせんさんごうしつ」と読めばいいのだろうか。

僕はろくせんさんごうしつのリビングのカーテンを開ける。窓の向こうには例の黒みがかった空がどこまでも続いている。青空と漆黒の宇宙空間の間には、まるでこの世とあの世を上下で分つように境界線が引かれている。その境界線の奇妙なグラデーションを見つめていると、そこに吸い込まれそうになる。

いつか、ジャポニカ学習帳の最後のページに載っていたコラムを思い出した。世界一高い高度で発見された鳥は、たしかハゲワシか何かで、高度10キロを超える場所で飛行機と衝突したらしい。
だから、ろくせんさんごうしつの窓からも、たまにハゲワシが飛んでいるのが見えるかもしれない。そうしたら僕は窓を開けて、ベランダに餌を撒いて、青黒い空の彼方から飛んで来るハゲワシを迎え入れてやりたい。

そんなことを妄想しながら、僕は空と宇宙のはざまの絵を描いた。いつか一度、そんな場所に住んでみたいと思った。



土曜日の昼下がり、僕はマンションの2階から窓の外を眺めていた。近所に出かけていた妻が自転車を漕いで帰ってくるのが見えた。僕はベランダに出て、妻に小さく手を振った。妻は僕が見下ろす真下に自転車を停めて、僕と目を合わせて頷いた。

妻はすぐに階段を上がって家に帰ってきた。

「おかえり」

「ただいま」


今度はソファに座ってコーヒーを飲みながら、二人で窓の外をぼーっと眺めた。駐輪場のそばに植えられた桜は、もう花をだいぶ散らして葉桜へ変わろうとしている。窓の隙間から春の風が入ってきて、テーブルクロスがなびいた。

やっぱり地上3メートルの日常のほうがいいや、と思った。

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