見出し画像

連作SES営業短編 第八話 退職理由

最底辺の場所でも花が咲くことはある。
今回は俺の、恋に似たなにかの話。

3月最後の週、金曜の夜。地下鉄新橋駅の改札を抜けて地上に出る。
柔らかくてエロい春の風が吹いていて、普段なら使わない通りを選んだ。コリドー街。
発情期の肉食動物が狩り合ってる様子を横目で眺めながら有楽町方面へ進む。高架下のもつ焼き屋で待ち合わせ。
きっとその日の俺は春の風に浮かれていたんだと思う。

彼女は20代後半のSEサポート。前の現場でセクハラにあい現場移動させた経緯があって参画から1ヶ月、状況を聞きに来た。
仕事には慣れた。周囲も良くしてくれている。給料が安いのが不満ではあるけれど現場とは関係ない。概ね問題ない。仕事の話を聞いた時間は3分くらい。

その後は最近見た映画の話をした。電車のマナーで許せない奴の話をした。過去付き合った異性の話をした。
彼女は俺に好意を持っている。
そして俺はそれに気付いている。

彼女は俺と同じペースで飲んだ。そして酔い潰れた。
店を出てタクシーを停めた。彼女を押し込み運転手に1万円札を渡した。
気を付けて、お疲れ様でした。一応声を掛けてタクシーのドアを閉めようとした。

腕をつかまれ車内に引っ張られた。キスをされた。
タクシーは俺を乗せて動き始めた。
断じて俺からは仕掛けていない。証人は運転手だ。

彼女の部屋は田園都市線宮前平駅から徒歩10分。
途中でコンビニに寄って俺の分の歯ブラシを買った。つまりそういうことになった。
俺にだってそういう夜はある。あんまり舐めないで欲しい。

付き合うとか、逆に付き合わないとか、そういう話はしなかったが彼女とはたまに会うようになった。
どこかで待ち合わせて飲みに行き、どちらかの部屋に泊まって昼過ぎに別れる。そういうことが何度かあった。
季節は春から夏へ移っていった。

8月の終わり。その日は彼女の現場近くで会う約束をしていた。
駅の改札を抜けたところで携帯が鳴る。上位会社の営業から。
急遽で申し訳ないが今日面談できる事務員はいないか。いる。
Uターンして改札を戻った。彼女への連絡はチャットで入れた。

9月は一度も会わずに過ぎた。お互いの都合が合わなかっただけだ。
それでも、都合が合わないってだけで始まらないことだってある。
久しぶりに予定が立ったのは10月も半ばを過ぎた頃だった。
退職します。会うなり彼女はそう言った。

退職者は本当の理由を言わない。言ったところでそれは嘘かも知れない。自分の本心がわからないって奴だって結構いる。
だから退職理由は聞いても無駄だ。
それでも俺は聞いた。微妙な表情のニュアンスや声の揺らぎから少しでも情報を読み取りたかったから。
公私混同も甚だしい。

その後は努めてしょうもない話だけをした。くだらない下ネタやエピソード。
なるべく笑ってその時間をやり過ごした。
1時間程で店を出て、駅前でハグをして別れた。
彼女とはそれきり会っていない。

もう少し俺が踏み込めば関係性や結果は違っていたのかもしれない。けれどそうはしなかった。
SES営業は人当たり良く、けれど腹の内は読ませない。
俺にもその習性は染みついている。


おまけの用語解説
退職理由:

退職者は労働基準法においても民法においても退職理由を説明する義務はないとされている。
だから退職者の多くはトラブルを避ける為、プライドを守る為、様々な理由で嘘を吐く。
離職率を下げるために対策を打ったとしても、指針となる情報が嘘なら効果は期待できない上に、誤った情報に振り回される羽目になる。
だから退職理由は信じるだけ無駄だ。

転職において会社のクチコミサイトを参考にする人も多いだろう。
けれどサイトで見られる退職理由にも同じ理由でバイアスが掛かっている。
嘘を嘘と見抜けない人間にインターネットは難しい。
ひろゆきの事は嫌いだが、奴の言う通りだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?