見出し画像

霜月騒動

私は毎朝午前四時五十分に目覚ましをかけているのだが、それよりも早い、四時過ぎにラインの着信を知らせるメロディが聞こえて来た。
ベッド周りにスマホを置かないようにしているのですぐには確認出来なかったが、こんな早朝に誰だろうと半分寝ながら考えていた。
半分寝ているものだから夢の中の出来事だったのかと判断が曖昧になり、そのまま再び寝てしまった。

そしてアラームの音で起床し、何気なくスマホを確認するとラインは夢ではなく、相手は妹だった。

深夜に母が救急車で運ばれたので起きたら病院に来てくれという内容に滝汗が流れた。

母への心配ではない。
着信音が聞こえていたのにすぐ出なかった己の判断の甘さに「不覚っ」という気分になったのだ。

すぐに行きますと妹に返信。寝ていたクマに事情を伝え、犬猫猫に出かけると伝えて家を出た。

私の母は独特な人間だ。
もう独特としか言いようがない。


これ以後の記述には先輩諸氏方が「老親に対してなんてことを。亡くなった後に後悔しますよ」と忠告したくなるような内容が含まれる可能性が高い。
既に親を亡くされ(親が存命である場合も)、忠告をしたくなるタイプの方は読み進めることをご遠慮頂きたい。
私は忠告を必要としないタイプだと明言しておく。
お互いの為だ。

思うのだが、「経験済みの自分からの忠告」というのは、あそこのパン屋はいまいちだったとか、あの掃除道具は壊れやすかったとか、そういうレベルのものであるべきだ。
親との関係なんて千差万別、たとえきょうだいであったとしても一人として同じではない。
「後悔しますよ」と言う人は、自分が後悔を抱いているのだと思う。

その後悔は残念ながらあなただけのもので、他者へのアドバイスにはなり得ない。
後悔すると分かっていても、そういう対応しか出来ない現実というものがある。
ああしてあげた方がよかっただろうか。あんなことを言うべきじゃなかった。
その手の後悔を予想し、回避出来るような状況であるならとっくにしている。
後悔は自分で抱え、死んでいく。
それでいい。
地獄へ行く覚悟は出来ている。


実家から一番近い総合病院に着くと救急外来の受付で妹の居場所を聞いた。コロナの関係で色々と手続きがあり、入室人数にも制限がある。幸運にも他に患者さんがいなかったこともあり、すんなり通して貰えた。

母の悪運の強さが発揮された第一弾だ。コロナの第七波と第八波の狭間で救急外来が落ち着いていたのである。

待合というより、普段は診察を行っているのだろう場所で、妹と父が座って待っていた。
聞けば運ばれたのは午前二時頃で、それから内科→外科の医師が診察し緊急手術が決まって、準備が終わるのを待っているという。

妹はさる事情で救急搬送に慣れ過ぎており、ある程度の結果が見えるまで私への連絡を控えていたのだ。
手術が決定したから来て貰うことにしたと言う妹に平身低頭感謝を伝える。

実家の三軒隣に住んでいる妹は、父から母が苦しんでいるという知らせを受け、深夜に様子を見に行き、救急車を呼ぶ判断をし、やって来た救急隊に実家から一番近い病院を指定して運んで貰い(これは地域的な事情もあってイレギュラーな指定であり救急隊との間でかなり揉めたようだ)最初に診察した内科が外科案件だと判断、偶々当直でいた外科先生が手術を決定。
「若い先生が電話でたたき起こされてて、その先生が到着したら始めるって」
ということになっていた。

それからしばらくして手術が始まることになり、看護師さんが本人に声をかけてもいいと言うので、一人ずつ様子を見に行った。

死にそうな顔で寝ている母。腹が痛いと訴えているので、取り敢えず頑張れと伝えて父にバトンタッチ。そのまま手術室へ連行され、我々は待合的な部屋で待つことに。ここにも他の患者家族などはおらず、我々だけだったので気を遣わずに済んだ。

手術中はすることもないので、深夜から病院にいる父と妹を一旦帰らせ、朝日に染まる町を見ながらホットレモンを飲み、終わるのを待った。
この後、妹の交渉能力によって一番近い病院に搬送をお願い出来てよかったと何度思ったかしれない。

母は特に病弱というわけではないのだが、手術と縁の切れない人で、人生五度目の手術だった。
そのうち二度は若い時で、五十代に入ってからの二度の手術には私が付き合った。
病人モードになるとプリンセス度が五割増しになる彼女の性格を思うと憂鬱になるが、病気怪我事故などはいつ誰が見舞われるかもしれないのでお互い様だ。心を広く持たなくては。

そう自分に言い聞かせつつも、私の眉間に皺が刻まれていたのは、このところずっと母と揉めているからだった。

揉めている原因は主に「買い物癖」と「車の運転」だ。
高齢の親の運転について、日本各地で日夜親子間バトルが繰り広げられているのは周知の事実であるが、買い物癖もそうなのではないか。

母は過去の病によって歩行に不安を抱えており、それをなんとかしたいからと、健康器具を買いまくる。

踏み台昇降的な運動が出来る器具、脚を左右に開く運動が出来る器具、サイクル的運動の器具、足首の運動が出来る器具、腰を揺らせる器具、背筋が伸ばせる器具…ざっと思い出しただけでもこれだけある。

田舎なので夫婦で一軒家、6LDKに住んでいるものだから場所だけはある。
「ジムが開けるよね!」とクマは呑気に言って私に視殺されている。

健康器具を買っただけで健康になったつもりになり、次を買う。
困ったものだ。どれもこれもほぼ新品の器具を見つめ、これを捨てるのは誰なのか俺なのかと溜め息を吐く娘。それは私。

器具だけではない。
謎の健康食品、及び薬もだ。

目が見えるようになる、血圧が安定する、便通がよくなる…などなど。
謎の薬がたくさんある上に、ありとあらゆる病院にも通院していて、それだけでお腹がいっぱいになりそうな量の薬を飲んでいる。
飲み合わせとかあるんじゃないのかと心配になるけど、何を言っても馬耳東風なので諦めていた。

しかし、それも限界に達し、このところ口うるさく言うようにしていた。
特に運転だ。

薬の飲み過ぎで死んでも自己責任だが、運転はいけない。
運転は私もするので、リスクはあるのだけど、母と同列ではない(たぶん)。
万が一にでも誰かを傷つけることなどがあってはならないと、やめる方向で生活を変えて行こうと提案していたのだが、「無理」「いやだ」の一言で返され、しつこく言い聞かせていたら「お前の話は作文みたいで気分が悪い」(悪かったな。作家だからな)「やかましい」「帰れ」と言われ、さすがに私も腹が立って言い返し、親子間紛争は泥沼に陥っていたのだ。

世の中には不機嫌になることで相手をコントロールしようとする人種がいるが、母はまさにそれだ。

娘としてマインドコントロールされて来た私は、成人してからも母にあわせていたが、色々と…本当に色々とあって、「おかしくね?」と気づいて、反旗を翻した。
本当は諾々と従い機嫌をとっておいた方が楽である。しかし、そうもいかないことが増え、ふざけんなよと思うことの方が大半を占めて来たので、戦わざるを得なくなったのだ。

それには母が常に振りかざしていた印籠「仕事」がなくなった影響が大きかった。

私が子供の頃から両親は小さな工場を営んでおり、手伝いを頼んで細々と経営していた。それを十年ほど前に廃業し、父は取引先に請われる形で働きに行くことになった。
七十にして初めて…ではないな。二十代前半以来の、サラリーマン生活の始まりである。

私も妹も、「父は短気で怒りっぽい破天荒な人」と思い込んでいたので、長くは続かないと思っていた。すぐに喧嘩してやめてくるだろうと。
何せ、工場を営んでいた間、ずーっと母と喧嘩ばかりで、常に家庭内がファイトクラブだったのだ。

だが、予想に反し、父は十年もの間、毎日働きに行き、老人ながら相手先では重宝がられ、最近になって八十を前に退職した。
その事実もあわせて気づいたのは、全ての元凶は「母であった」という事実だ。

父は配偶者であるし、血縁ではないから母の機嫌を敢えて取ったりしない。だから、揉めるのも当然だった。
今の私のように。
そりゃ、あいつの相手してたら喧嘩にもなるよ。

話を戻して、母と仕事についてだ。

母はとにかく「仕事が」と言う人だった。
子供としてそれをすり込まれて来たので、「仕事があるから仕方がない」と全てを納得していた。

家が空き巣に入られた後みたいに常に散らかっているのも、仕事が忙しいから仕方がない。料理をせずに外食で済ますのも、仕事が忙しいから仕方がない。妹や私が大変な状況にあるのに助けないのも、仕事が忙しいから仕方がない。

それで全てに目を瞑って来たのだが、会社を畳み、父は働きに行き、母は家で主婦することになって十年。

全然変わらないのである。

まあな。
無理もないさ。
長年の習慣を変えるのは難しいものだ。

そうやって大目に見て来たつもりだ。

だが、年金生活者になって、多少の蓄えはあるのだろうけど、以前ほどの収入がないのに生活がさほど変わらないのはどうなのかとねちねち言ってみたところ、「どうにもならなくなったらあんたが面倒みればいい。娘なんだから」と返され、私の中でリングゴングが鳴ったわけだ。

掃除もろくにしねえのにダイソンのたっかい掃除機を何台も買うような奴の面倒をなんで私が見なきゃならないのか?
ていうか、自分より生活レベルの高い親の面倒をどうやって見ろと?ていうか…(エンドレス)

もう切りがないので舞台を病院に戻すね(グスン)。


手術は私たちの予想よりもずっと早く終わった。
自宅に戻っていた父と妹が戻って来てから間もなく、手術を担当した若い先生が無事に終わったと報告しに来てくれた。
寝ているところをたたき起こされた先生である。

開けてみないと分からない部分もあるとのことだったが、問題はなかったようで、二週間くらいで帰れますよと言われ、ありがとうございますありがとうございますあなたのような献身的な若者がいるから日本は助かってますと心の中で拝み倒しておいた。

既に麻酔からも覚めているので、声をかけてあげて下さいと言われ、またしても一人ずつ会いに行った。
長女の私はいつでもトップバッターである。

目を覚ましていた母は、手術前とは明らかに顔が違って楽そうだった。
よかったとほっとし、無事終わったみたいだよと伝えたところ。

「うなぎ……」
「え?」
「うなぎ……行って…」
「……」
「私は…いいから……うなぎ……」

知らない人間が聞いたら術後の譫妄状態かな?と思うようなやりとりであるが、この一言で、今回の手術はかなり楽だったのだと私は確信した。
前の手術では「痛いー痛いー」とうめくしか出来ていなかったのだから。

うなぎ。

それは父の退職祝いで皆で食事に行こうということになり、数日後に予約していたうなぎ店に、自分は行けないけれど、皆で行って来いという指示だった。
手術が決まった時点で、妹とうなぎをキャンセルしないとね…と話していたあれだ。

元気だ。うん。

もういいなと判断し、父にバトンタッチ。
妹は私の報告を聞いて呆れ、会わなくていいと判断し、後は病院に任せ帰って来た。
そもそもコロナだから、面会制限とかかなりかかっているのだ。今回は偶々他に誰もいなくてかなーり大目に見てくれていたのだ。

そして、実家に戻った我々には大仕事が待っていた。
複数の病院の予約変更、病院に提出する書類の捜索、見つからない書類の再発行などなど。
カオスな実家を掃除しながら「どうして…」と涙した。

というのも、コロナが流行しだした当時。
外出禁止的な風潮であったので、することがなく、実家をかなり気合いいれて掃除したのだ。
それから二年半余りでこんなことになっているなんて…思わないじゃないですか…。(涙)

あんまりなことになっている冷蔵庫内を清掃し、早めに食べた方がいいものから調理、父に食べさせつつ、ひたすら掃除と片付けに勤しんだ。
母の悪運の強さ第二弾は、妹の仕事が落ち着いている時期で、しばらく勤務がなく、父が退職したばかりだったという点において発揮された。
母が退院するまで少なくとも二週間、最長三週間の間、父がつつながく暮らせるようフォローしつつ、これを機に実家を片付けようという一大プロジェクトが決行された。

ここにおいて、私の仕事の都合は全く考慮されていないわけだが、それはいつものことであるので不問に処す。
私は永遠の無職なのだ。
呼べばいつでもやって来る便利屋である。

プロジェクトには片付けだけでなく、「母の寝室を一階へ移す」「一階の引き戸三カ所を直す」という難工事も含まれていた。
実家一階には引き戸が三カ所あるのだが、かつて飼っていた大型犬によって全て壊され、開けるのも閉めるのも一苦労だった。
それを直してくれと何度も言っていたのだが、何故か、ここだけにはお金を出したがらない。母が普段散在している金額からすればさほどの金額ではない。

謎だったのだが、いない内に直してしまおうと決意。
入院翌日に知り合いの大工さんに来て貰い、発注した。
二週間くらいでいけるとの話で、退院するまでには直るだろうとほっとした。

そして、寝室移動だ。一階には八畳の和室があり、荷物置き場になっていたそこを片付けて、二階にある母のベッドを移動させようということになったのだが、荷物置き場というだけあって、謎の物が山ほどある。

その中でも一番の難敵は引越祝いに叔母が贈って来た座卓だった。

なんかよく分からないけど立派っぽい座卓なんだが、ものすごく重い。
一人では動かせず、持ち上げるには男二人でも無理なほど重い。
これがあるせいで長年、八畳の和室なのに六畳分しか使えなかった。
そうして、いつしか和室は荷物置き場になっていった訳で、私としては憎しみの対象でさえあったこの座卓も、この際、始末してやろうと思い至った。

さくっと粗大ゴミの手続きをし、片付けで出たゴミも収集日ごとに山ほど出した。

毎日毎日、実家に通っていたので、猫たちからは不審がられ、評判が落ち、仕事は全く進まず、ふんだりけったりであった。

去年の十一月は右手を骨折し、人生に絶望していたが、今年は入院騒動とは。
季節的には大好きな時期なのに、こうも騒動が続くと十一月が嫌いになってしまいそうだ。
それでもいずれはやらなくてはいけない実家の掃除片付け。
真夏に倒れられるよりもよかったと思おう。

それに母がいないと驚くほど、実家が散らからない。
父もきちんとした人とは言い難いのだが、母よりは百倍マシだと実感した。

そして、母が入院してから一週間が過ぎた頃。
父がホームセンターに行きたいと言い出した。

父はまだ免許を持っているのだが、母の入院中に自分が運転して事故でも起こしたらとんでもないことになるという常識的な判断が出来る人なので(!すごいよね!母なら出来ないよ!)、連れて行ってくれないかというので二つ返事で請けおい、一緒に出かけた。

父の買い物が長いのは分かっていたので、私も気長に付き合い、あれこれ買って帰宅し、今日はもう帰るね…と自宅に戻ったところ。妹から電話がかかって来た。

「お姉ちゃん。悪い知らせよ」
「なに?」
「奴が明後日、退院してくる」
「!!」

待って待って待って。

最低二週間…三週間になるかもしれないって話じゃなかったの?
それも状況次第ではリハビリ病院へ転院とかってことにもなるかもしれないっていう噂は?
どういうことなの?

頭が真っ白になりつつも、入院翌日に病院から伝言ゲームで連絡を受け、必要な物を持って行った時のことを思い出した。

看護師詰め所であれこれ手続きをしていたら、どこからか聞き慣れた声が聞こえて来たのだ。

詰め所の前の部屋が母の病室で、リハビリの先生と話す母の声だった。
ものすごく元気そうにあれこれ訴えている。
ああ、元気だ。もう大丈夫だな。

そう確信しつつ母の病室へ行くと、待ち構えていたようにあれこれ訴えてくる。
寒いから脚に布団をかけろ、それはそこへおけ、時間が分からないから腕時計を腕にはめろ。

「腕時計はまだダメだよ。まだ点滴してるんだし、邪魔になるから」
「じゃ、お金置いていって」
「なんで?」
「つまんないからテレビ見る」

元気だ。ああ、元気だとも。

呆れ返りつつ、手術翌日くらい何も見ず考えず、おとなしくしておけ…と説教し、とっとと病室をあとにした。

人を召し使い扱いしてくるあいつに付き合う暇はない。
そう考え、リタイアした父を伝書鳩に任命した。
父は片付けに参加しているわけじゃないし、父があいつに付き合えばいい。
頼む、父。
よろしくな、父。

というわけで、その後は顔を見てもいなかったのだが、手術翌日のあの元気さを考えれば、早々に追い出されてもおかしくなかったではないか。
読みが甘かった!
迂闊!
私のバカバカ!

ということは、週末にクマに手伝ってもらって下ろそうと考えていたベッドや家具なんかを、明日の内に下ろしてしまわなくてはいけないのか。
いや、その前に。
あの悪夢のような母の部屋を明日中に掃除しなくてはいけないのでは…。

一階の和室は綺麗さっぱり片付いていたのだが、たった今泥棒が五人くらい現れて荒らしていきましたよという状態の母の部屋には手を着けていなかった。
疲れ果ててて手を着ける気になれなかったのだ。
週末に頑張ろう。
そう思って未来の私に期待していたのに。

あかんがな。

翌日、猫たちの大ブーイングを受けつつ、早朝から実家へ赴き、片付けを始めた。

なんでだよ。
なんでこんな状態で暮らせるんだよ。
ダイソン、二台もあるじゃねえか!と叫びつつ、自分用に買ってあるヒタチの紙パック掃除機で何層にもなった埃やゴミを吸いまくり、取り敢えずのスペースを作って、ベッドを解体した。
実家の階段は回り階段なので、とにかくシンプルな状態にしなくては運べない。

だが。母のベッドはセミダブルで、マットレスだけの状態にしても、どうやっても階段を通らなかった。後から取り付けた手すりのせいで、あと少しのところで引っかかってしまう。
妹と何度かチャレンジした後、これは無理だなと諦め、次の策を練った。

業者を呼ぶとか新しいものを買うとかいう選択肢はない。敵は明日、カムバックしてしまうのだ。
これは…父のシングルベッドを一階へ運び、父にセミダブルベッドで寝て貰おう。それしかない。
速攻で父を説き伏せ、今度は父のベッドを解体、一階へ移動させ、組み立てた。
テレビもないと怒るだろうから、テレビとテレビ台も移動させ…最低限の…けれど、あのクソ散らかった部屋よりはずっと快適な状態に仕上げた。

そして、翌日。
母のご帰還である。

病人モードの(いや、病人なんだけどなんていうか、もう思いやれないんですよ。他にも書けないこととか色々ありすぎて)母は神妙にしており、一階にベッドを移動したのも、ドアの工事を手配したことにもクレームはつけなかった。それよりも。

「入れ歯を治したいから歯医者に行きたい。ついでに髪も洗えてないから美容院で洗って貰いたい」

と言い出したので、妹がキレた。

常日頃から血圧計が大好きで始終血圧を測っては今日は昨日より高いいつもはこんなんじゃないおかしいとうるさく騒いでいる母である。
それなのに、退院したその日に歯医者と美容院に行かせられるものか。また大騒ぎになること間違いない。

一事が万事その調子で、近所に住んでいるだけに負担の大きい妹の胃が心配で、私は可能な限りフォローしようと、ケアマネさんと連絡を取り、打ち合わせの日程を組んだ。
ネットスーパーの契約もして、出来るだけ不自由のない暮らしが出来るよう、あれこれ手はずを整えていた最中。


更なる悲劇が私を襲ったのだ。


もう、神様、私を見捨てたんじゃないかなって、ちょっと涙したよ?


その夜。

帰って来たクマが咳をし始めた。

厭な予感がした。

クマは元気な男で、私のように年中咳をしている軟弱アレルギー持ちぜんそく患者とは違う。

あいつが咳…?
まさか…。

脳裏を過る「コ」のつくあれ。

この時、いつもの私だったら即座に「やばい。お前、あっちで隔離!」と指示出来ていたのだと思うけど、連日の騒動で私は疲れ果てていた。

咳してんなあ。
寝ている時も横で咳き込んでるなあ。
なんかやな感じだなあ…とぼんやり思っていた。

クマはちょっとお馬鹿なので(ああ、もう、断言出来るね。今なら、断言出来る。あいつはちょっと馬鹿だな!)自分の体調がかなーり悪くならないと気づけないのだ。
だから、休みだったその日も、実家について来て箪笥を下ろすのを手伝ったり、買い物に連れて行ってくれたりしていた。

その親切が仇になったのはその夜。

「あれ?」

風呂上がりに首を傾げ、咳をしながら「俺、熱があるかも」と言い出した。

計ってみると38.8度。

ビンゴじゃねえか。

大慌てで隔離し、もしもの時にと用意してあった市販薬を飲ませたところ、翌朝には7度まで下がったのだが、喉が痛いだの声が出ないだの言うし、これはダメだなと、翌日まで待って受診。

陽性確定。
芋づる式に私も陽性。

だが、その時点で発症はしていなかったので、このまま無症状で…という願いもむなしく、全く同じ経路を辿ったのだ。

よりによって!

普段であれば何ヶ月も実家に行かないこともあるのに、よりによって!

自分の判断ミスを呪いつつ、ひたすら皆の無事を願っていたのだが、接触が僅かだったこともよかったのか、なんとか犠牲者は私一人で済み、大事にはならずに済んだ。

クマも私も年末までに四回目のワクチンの予約をしなきゃいけないねーと話していたところだったので、三回目までは摂取済みだったのだが、大変厳しい体験であった。
これが軽症なら重症って死にますよね?
あ、やっぱりそうですよね?
そりゃ世界的問題になりますよね?

かからない方がいい。マジで。

犬猫猫にもうつしてしまう可能性もあるので、扱いが本当に大変だったし、もう、泣きたい状況だった。
先に発症し、体力のあるクマがなんとなく俺もう治ったかもーでもまだちょっと咳出るかなー的なノリでいるのも憎らしく、そんな狭い心の自分も悲しかった。

そして、熱と咳、咽頭痛、身体の痛みに苦しみ、うんうん唸っている中でも、母は絶好調で、妹に様々な奇襲を仕掛けるので、妹からじゃんじゃんラインが来て、電話もかかって来る。

本当に申し訳ない。
復活するまで今しばらく待っては貰えないだろうか。

ベッドの中で妹の愚痴を聞き、迷惑をかけるのをひたすら謝り、濃密だった一月をプレイバックしながら、遠い気分で密かに近付いてくる師走の足音を聞いていたのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?