私は正しさの奴隷である
私は正しさの奴隷だった
私は小学校の頃、教師や親に怒られたり、クラスメイトにからかわれたりするとすぐに傷ついて泣いていた。
そんな時、泣かせてしまった側はバツが悪そうな顔をしたり、私が泣いていることに対して怒ったりしていた。おそらく、自分が悪者であると決めつけられているように感じていたのだと思う。
私は些細なことで傷ついて泣いてしまう自分が全て悪いと考えていて、それが正しいことだと思っていた。しかし、私の身勝手な正しさのせいで周囲の人達のことを無意識に傷つけていたことには気づいていなかった。
大人になってからも自分の正しさに固執するところは変わらなかったし、むしろ悪化していった。
今までは自分だけが悪いと思っていたのだが、成長するにつれて自分を傷つける他者が悪いと感じるようになり、次第に傷つけられるのが怖くて自分にも他者にも興味をなくすようになった。
その頃の自分はそれが絶対に正しいことだと思っていた。
私は自分の正しさを疑った
しかし、最近になってようやく気づくことができたが人間関係において、他者の気持ちが分からないというのはとても怖くて傷つくことであり、傷つくから怒り、不安などのネガティブな感情がでてくるのではないかと思う。
例えばつい先日、同僚が私のことを疑ってきたのに、それが同僚の勘違いだと分かっても何の謝罪もしなかったことがあった。
その時の私は「人として終わってんだろ」などと思い、自分の正しさを主張していた。
たしかに、人を疑ったのに謝らない相手に対して怒るのは正しいことのように思える。
しかし、そんなことはどうでもいい。重要なのは他者の気持ちを理解しないままでは私の苛立ちは消えないということである。
だから、何で同僚が人を疑っておいて勘違いであっても謝らなかったのか、相手の目線になって考えてみた。(具体的な方法については気が向いたら記事にします)
まず、最初に思い浮かんだのは彼が65歳の男性だということである。28歳の若造には自分が100%悪いと分かっていてもプライドが邪魔をして謝れなかったのかもしれない。そう思い返してみると彼はよく「舐められたら終わりだ」と呟いていた気がする。
また、終業間近で疲れていたことも原因の一つだと思う。特に高齢になると体力も落ちてくるため、疲れで正常な判断ができなかったのかもしれない。
このように自分の正しさを疑って他者の目線になって考えてみることで、相手の気持ちが理解できるようになり、苛立ちは消えていった。
過去の私は人に興味をなくすことで自分が傷つくことがなくなると思いこんでいたが、それはむしろ逆効果だったのだ。
私はありのままの私を肯定した
多分、というか間違いなく私の傷つきやすい気質はこれからも変わらないと思う。しかし、今はそれでいいと思っている。
些細なことで傷ついてしまうが、そのたびに他者の気持ちを考えられるようになって、立ち直るほどに価値観が成長していく。
我ながら素敵な才能だと思うし、今なら自信をもって私は自分のことが大好きだと言える。
それに過去の自分や私と関わった全ての人達にも感謝している。
例えばもし過去の自分が人や物事に興味をなくしてなかったら、私は心の痛みに耐えきれなくて死んでいた気がする。
私と関わった人達にも私に好意的な人、悪意をもっていた人、何の興味もなかった人など様々だったと思うが、それらの人達全てが今の私を作っているのだとしたら、それはとてもありがたいことだと思う。
こんな風に他者を含めた自分の過去や現在の全てを受け入れて感謝する、そんな今の状態がありのままの自分を肯定するということなのではないだろうか。
私は自由になった
私は自分の正しさを疑うことで、ありのままの自分を肯定できるようになり、奴隷から解放されて自由になれた。
そう思うと自由とは、自分勝手に正しさを主張することではないのかもしれない。どれだけ自分の正しさを主張して自分勝手に振る舞おうとしても、人間社会で生きている限り他者から疎まれたり、妨害をうけたりしてしまう。そんな状態の自分の心は自由とは決して呼べないだろう。
私が思う本当の自由とは自分の正しさを疑って他者に興味をもって慮ることだ。
前述したように人間は知らないことや分からないことに対して怖くなって傷つき、怒りや悲しみ、不安の感情が出てくる。
しかし他者に興味をもって慮ることで相手が何故自分を傷つける行為をしたのかが理解できるようになり、自分のネガティブな感情から解放されて、結果的に心が自由になって生きやすくなっていく。
事実は変えることができないが、事実の捉え方は自分で選ぶことができる。
私は今日も自分の正しさを疑い、他者を慮って自由に生きていこうと思う。
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