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小学校とかいうやつ

わりと直近で自分の小学生時代について考えていたので興味深く読ませていただきました。
記事の感想というより自分の小学校観?になってしまった。

小学校は後に控える中学・高校・大学・就職その他と死ぬまで続く社会生活の中で必ず受けるストレスに対する耐性をつけておく場という認識。(それだけが目的とは言わないが耐久テストっぽさは拭えない)
勉強するところではなく模索するところ。勉強したいなら塾に通い、何かうまくなりたいなら習い事をするほうが早い。
よって私は「小学校にはある程度の同調圧力が必要」と考えている。小学生から中学生への変態に失敗して社会に進出できなかった身だからこそ、小学生のうちに「自分は社会生活に向いてない」と知るのは大事という実感がある。
本当はそこから向いてないならじゃあどうすると準備する必要があったのだが、私は「向いてない!」で終わってしまった。それは私の問題だ。

大抵の小学生は自分が何をしたいかなんて考えない。いずれ何かを志したときに何が必要かも分からない。
その「何」を選ぶ機会を与えるのが小学校の役割だと考える。得意・不得意を知る機会。
比較対象のないままでは自分がどの程度それを得意・不得意としてるか知りようがないから、ある程度みんなで同じことをやる必要はあると思う。あくまでも【ある程度】は。

私の一例。高学年になると朝礼で聞かされる校長の話を自分なりにまとめて教室で3分間のスピーチとして発表させられた。(発表者以外はスピーチの感想を書かされる)
私はその時間が、主に発表が嫌いだった。でも聞き流しつつも箇条書きでメモしてまとめる能力は育った。
その能力が今に残ってないのは私が興味を抱かなかったからで、理解力や読解力を育む助けにはなった気がする。
とにかく言葉に触れて言葉を考えるので、何らかの学問や職業に興味を抱くきっかけになり得る。
重要なのは「興味を抱かない」のも選択だってことで、機会がなければ選択はできない。
あと、興味ない話を聞いてなくても返事してやり過ごす練習になる。人類の必須スキル。

私が小学校に求めるのは不得意を得意に変えようとしないこと。
知るだけでいい。
社会に出てから大人として結ぶ「契約」とは話が違う。小学校において「できない」は「悪」であってはならない。

逆上がりできるまでやらせなくていい、ただできないことが分かればいい。できるようになりたい子に練習方法を教えればいい。テストの点数に「低い」はあっても「悪い」はない。
運動が苦手。算数が苦手。国語が苦手。走るのは得意だけど泳げない。筆算できないけど電卓があれば解ける。作者の気持ちに興味ないけど漢字で薔薇って書けるぜ。
苦手を知るのは得意を知るのと同じくらい大事なのに「成績が悪い」「できるようになる」が付随すると歪んでしまう。

「計算は苦手だけど暗記が得意だから公式を覚えれば算数の成績は上がる。社会の授業は全部苦手。漢字の書き取りは得意。作文は嫌い。音楽の授業が好き。人前で演奏するのは嫌。聞くのが好きとも違う。楽器が好きかも。作ってみたい」
結局、やってみて好きか嫌いか得意か苦手か、自分がどうなのかを知らなければ何を始めることもできない。

ただそれは毎日の学校生活の話。
引用記事の、長期休暇の宿題は選択制がいい、には深く同意した。似たようなことを考えた。
ドリルは、まあ筋トレみたいなもんで、あっても害はない。でも休暇で忘れるようなことは忘れていいし、忘れたくない子は復習すればいい。
私はドリル好きだったので、なかったらないで自作したかも。予定表の天気は終業式の日に教室で全部埋めたが、なわとびが好きなので指定の4倍やってた。
とすると自主的に選択できてるのだから夏休みの宿題は大量にあっていいのか。
うん、まあ、あってもいい。あったうえでやらなくてもいい。
これはやる、これはやらない、って自分で選んで、選んだものはやる。結果がまずくても怒らない。結果がまずかったなで終わる。

引用記事で「日記」「工作」「感想文」が挙げられていて、とても適切だと感じた。これらは特に表現の分野だから向き不向きが強く出る。

宿題とするにもやり方を変えるべきだと思う。
いわゆる「夏休みの日記」は求められる字数や内容に暗黙のルールがある。これを「ただ記録をつける」に変えるだけでも少し楽になる。
日記の主な目的は継続力の育成だと思うのだが、表現力まで要求してハードルを上げたら意味がない。

天気、起床時間、体重とかそんなのでいい。事実を記録するだけで充分。表現はいらない。
ピアノの練習。皿洗い。洗濯物を畳む。夏休みの間にすると決めたことをやった・やってないで〇×つけるのでもいい。
忘れた日が多ければ「このやり方は向いてないんだな」と本人が知れる。
もっと手軽なことを習慣にすれば続くのか、長期的な継続ではなく短期集中が向いてるのか、集中自体が苦手なのか。

もちろん日記を書きたければ書けばいい。でも宿題である必要はない。工作と感想文はもっと顕著で、創作は「やりたい」と思わないのにやるべきではない。
体験教室みたいなものはいくらでもある。自分で探して行動するほうがいい。
自由研究。「自由研究キット」なんてもんが売れている時点で無価値。本当に、やりたい子だけがやればいい。
クラスで発表したいと言うならさせてやる。それが自主性だ。

正直、宿題をめちゃくちゃ減らしたら夏休みめちゃくちゃ暇なので放っといても勝手に何かする。何かはしている。それでいいじゃん。

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