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人が物に見えていた時。

僕はしばらく厳密にいうと1浪生まで
人が意思を持った、固有の感情を持った生き物ってのを理解できてなかった。

「怒り」という感情だけ、人が意図しないことが起こってしまった時に自分の脳では処理しきれなくてバグる。というくらいで理解していて
むしろ怒りしか僕は認識していなかった。

怒りは最も出やすい感情で、表情や行動にも大きく出る最も単純でわかりやすい感情であると思う。

それだけ人の感情にあまりにも触れていなかったのかな

友達もいなかったし、無能だからよく親父に怒られて
母が実家を忌み嫌っていたから憎しみとか怒りは理解してたかもしれない

絵を描いたりしてうまくできたとして、人に褒められても嬉しいって感情は起きづらかった(理解できなかった)
デフォルトが人は人を馬鹿にしているしマウントするものだという思考でいる癖がついてるから人から向けられた感情をうまく嬉しいとかに反映できなかったのかもしれない。

今はいくらかマシになったけどもここ3年くらいの感覚。

人が物に見えているときは
人は不都合に直面すると憤慨するだけの障害物だと思っていた
スポーツとか理解できなかった
たくさんの障害物がよくわからない超音波的な文化を共有していて
ボールやゴールという障害物にひたすら向かっていく
何かしらで上下、マウントし、マウントされるという図式をわざわざ作る
クソみたいな文化だと思ってた。
今では外部を攻撃して排斥したいという欲求を武力戦争をすると人が死ぬのでフランス革命以降の人権に反するため、排斥、攻撃したい欲求を別オブジェクトに矛先を向けかえた擬似戦争だと思ってる。
そこに身を投じるのはその図式に自分を代入することだから自殺行為である。
そんな感じ。
それと同時にやってる当事者たちは根っからプレイするのも応援したりするのも楽しんでるらしいことが最近はわかる(体感としては理解できない)

人を感情のあるものとして理解できないというのはもしかすると
その人の感情ををあるものだとして受け取ろうとするとメモリーがいっぱいになるからだとも思う、別のところにもともと少ないリソースを割くために
面倒でいつも変形する波であるということでわざと感じないようにしていたかもしれない。
それを感じないためにも全部無視して本当に危険な怒りだけ察知できるようになったのかもしれない。
小学生のころから割とそうだな

そのころはアシナガバチを10匹くらい集めて羽音を聞いて、死んでしまったものは標本に、他のものは危険な状況で逃してみるというスリルでしか興奮しなかったからその遊びをしてた。
わざと毒蛇に噛まれたり、毛虫(毒のあるやつ)に触ったりしていた。

そのくらいの刺激がないとずっとダウナーで
つまらない。

もしかしたら感情の受容体が弱っていてだけなのかもしれない。

今は初めて壁画の仕事をさせてもらった飲食店の店長田中さんや、
愛知にいる時にお手伝いを色々とさせていただいた世界的なコラージュアーティストの長尾洋さんのような尊敬できる大人とかに出会って自分の感情の受容体が
少なからず、元に戻ったか形成されつつある(本来はもっと小さい頃に完結すべきである発達段階だが)のかもしれない。

本当にありがたい。

でもそろそろ面倒になってきたので
また人を物くらいでみるぐらいの感じでいい感じがするのだ。

人間なんてめんどくさい、障害物ってくらいがちょうどいい。

みなさんごめんなさいねーーー。


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