君がお嫁に行くまでは膝の上に 800文字ショートショート 94日目
「おやおや。今日はどうされました? お嬢様」
ワタクシの膝の上に座ってぐずぐずと鼻水を啜る、小さなお姫様の背中を支えつつご機嫌を窺う。潤んだ瞳からぽろぽろと透明の真珠を流し、への字に結んだ唇が悲しみにより震えていた。
「おべんきょうやだ。おけいこもやりたくない。みんなとあそびたい……」
「奥様にまた手厳しく叱られたようですな」
朝から晩まで部屋に缶詰めして勉学を叩き込み、教養を高めるためにあらゆる習い事を教え込む。
教育熱心なのは感心するがまだ五歳児。何事にも早く始めることには賛成だが、固められた善意の“躾”により交友関係は希薄──というよりほぼない。
遊び相手もいなければ少しの息抜きすらも許されない。
「おそとにきれいなおはなさんがあったから、ちょっとだけおべんきょうおやすみしてみにいっただけなのに……」
「それはそれは……。可哀想に」
よく見るとお嬢様の手にはしおれたシロツメクサが握られている。年頃の好奇心旺盛さを歓迎すべきだと思うが、旦那様も匙を投げる堅さには受け入れられないことだろう。
「ともだちもいないし、おとうさまもかえってこないし。わたし、ずっとひとりぼっちなのかな」
「ワタクシがいますよ。いつまでもお嬢様の味方です」
腕に寄りかかった小さく暖かな存在を慈しむように見つめる。
一年前、初めて出会った時より幾分か体重が増えた気がする。膝に感じるすくすくと成長する命の重みを愛おしみながら、いつまで甘えてくれるのだろうと寂しさも湧き上がってきた。
「子供はすぐに成長しますからね」
そして大人になったら、ワタシクのことなど忘れて強く生きていくのだろう。
ずっとワタクシの膝の上で座ってくれていたらいいのに。
「ものおきごや、ちょっぴりこわいけどいすさんにすわってるととってもおちつく」
にこにこ笑う少女にワタクシの声は聞こえていない。
いつか小さなお姫様の手を引く王子様が現れるまで、今は安らぎの時を君と一緒に。
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