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消 閑

   ー再び○○○○○君に與ふ

 虫のゐどころのわるいときには

春風でさへ腹だたしいものだ。困

つたことには、僕はこのごろ生憎

と虫のゐどころが甚だわるいとこ

ろである。君は、新聞の經營と戀

愛とに沒頭して繁忙をきわめてゐ

るといふことだが、それにもかか

はらず、明快なる理論と、まとも

な感情とを放散させて、わざわざ

僕ごときに應答せられたことは恐

縮である。然し、まへにも言ふと

ほり、僕は今、虫のゐどころがよ

くないのだ。だから、君が僕の「久

濶」一篇に答へてくれた一文も折

角乍ら僕には甚だ不愉快であつた

 だいいち君は諧謔の分らない人

間である。

 僕の「久濶」一篇は、諧謔で終始

してゐるつもりである。僕の書き

かたが稚拙なために、君にそれが

分らなかつたのかも知れないが、

それにしても全く分らなかつた君

はどうかしてゐるとしか、僕には

思へない。

 君は僕の書いたものを馬鹿正直

に讀んでゐる。僕は君の應答を一

讀して、君ぐらい正直な人間は、

稀れであると思つた。正直な人間

は、いつかは眼のあるひとから認

められて出世をするといふことだ

から君もいづれ、社會主義の隊長

ぐらいにはなるにちがひない。僕

は君の馬鹿正直を嗤へない。さう

いふ君の人格に十分敬服し又甚だ

羨望に堪江ないものである。だが

一方、君が諧謔の分らない人間で

るのは、僕にはひどく腹だたし

いことである。僕の書く散文がく

だらないといふことは、更めて君

から指摘されるまでもなく、僕自

らもそのとほりに認めてゐる。へ

んなことをいふやうだが、僕は宇

宙を輕蔑するものである。既に宇

宙を輕蔑する以上、宇宙からみた

ら一粒の砂にもひとしい人間を輕

蔑することは言ふまでもない。そ

の微小な人間のうちの、バクテリ

ア菌ともいふべき僕自身並びに君

などを輕蔑することは勿論である

 僕の散文がくだらないことを十

分に承知してゐる僕は、同時に君

の單純幼稚なる思想(君の頭腦は

思想などといふ言葉に値しないも

のである。思想といふ文字だけで

さへ、君の頭腦に比べては遥かに

高等なものである)を輕蔑する他

はない。四月廿五日の越後タイム

スを讀むと、君の思想のごときは

くさつた南瓜と同然であるといつ

て、文鳥君にでさへ輕蔑されてゐ

るやうである。僕がひとかどの作

家かなにかのつもりで自惚れてゐ

るといふ君の言ひぐさをほんたう

にするひとがあると困るから、ま

づだいいちにこれだけの蛇足を書

いておくわけである。


 宇宙を輕蔑する僕が君に與へた

「久濶」一篇は、なにも君から、マ

ルクスがどう言つたの、サンデカ

リズムがどうのといふやうな、君

でなくては到底分らないほど小む

づかしいことを教へてもらひたい

ためではない。君が僕をからかつ

たから、僕もちょつと君をからか

ひかへしただけのことである。そ

んなことは日常生活にだつてよく

あることではないか。たとへば―

「君の家の庭は雜草だらけではな

いか。すこし綺麗に手入れをし給

へ」と或るひとが言つたとすると

その男は、「いや、折角だが、僕は

この方が好きなのだ」こう答へる

他はない。又これだけの應答で十

分である。これ以上つべこべと言

ひぐさを並べるのは―たとへば、

「奇麗にしつらへた月並な庭など

をみると僕は風邪をひきさうにな

る」といふやうなことを言ふのは

馬鹿正直である。君は僕が、君の

三行ほどの文章に喰つてかかる必

要はないぢやないかと言つてゐる

が、僕が君に喰つてかかつたと思

ふのは君の自惚である。たかが君

ぐらいの人間に、僕がまじめに喰

つてかかるやうなめんだうなこと

をするわけがない。まへにも言ふ

とほりに君が僕をひやかしたから

僕も君をひやかいかへしただけの

ことである。ところが又君は「與

太文章」で僕をひやかしてゐる。

だから僕もまたこの「消閑」一篇を

草して君をひやかすわけである。

いたちごつこといふ言葉はこうい

ふことを言ふのではないか。こう

いふことをするのは全く餘計なこ

とである。餘計なこととは知り乍

ら、敢てこんなことをかくのは僕

の虫のゐどころのせいである。又

僕に痴氣が少々あるためでもある

 君はぢたばたしなくては生きて

ゆけない人間らしく思はれるし、

又ぢたばたすることを立派に理論

で說明してゐるほどだから、いつ

までもぢたばたしてゐ給へ。僕は

といふと、ぢたばたすることなど

は、今ではいやになつてしまつて

ゐる。いや―もつとはつきり言ふ

と、僕はぢたばたしたくなつたと

きはぢたばたするし、したくない

ときはしないのだ。たとへば―贅

澤な生活ができるときには、贅澤

な人生はなんといふ幸福なもので

あらうと、こう思つてその一瞬を

賛美するし、みぢめな暮らしをし

なければならないときには、人生

はなんといふみぢめなものであら

う。これといふのもみな社會の組

立が不合理であるからである。・・

などと思つてみることもある。僕

はなにごともそのとほりに氣まぐ

れなのである。僕が自分を宇宙輕

蔑點滅燈であると名づける所以で

ある。

 をはりにひとこと言つて置きたいこ

とがある。僕は君の戀人が賣春婦

であるかどうかを君に確めた覺え

はないのである。それを君は、正

直にも、自分の戀人が賣春婦であ

るといふ事實を昂然と告白してゐ

る。それだけではない。君は藝者

といふものは賣春をしなければ生

きてゆけないし、又藝者といふも

のは資本主義の無惨な犠牲である

と斷定してゐるのはへんな言ひぐ

さではないか。なるほど數多くの

なかにはさういふひともあること

は事實である。然し、田舎ではど

うか知らないが、僕の知るところ

では、自ら好んで藝者をしてゐる

女や、決して賣春などをしない藝

者も随分と多いやうである。一方、

賣春をする藝者のなかにも、君の


やうに社會の抑壓などのためでは

なく、たゞ漫然とーたとへば性慾

満足のためとか、必要以上にいい

着物が欲しいとか、うまいものを

食べたいとか、いふやうなことの

ために、むしろ好んで賣春をする

女があることも事實である。

 又、君のいふところによると、

恰も藝者は資本主義社會のために

出來たもののやうにとれるが、こ

れもへんな言ひぐさではないか。

更めて藝者起源の歴史をしらべる

までもなく、藝者がどれほど昔か

ら存在してゐたかといふことは、

ちょつと芝居をみても分ることで

ある。こうなると、君はどこまで單

純で、考へのせまい人間かしれた

ものではない。君は、僕が藝者を

冷笑してゐるといつてゐるが、そ

れも君の獨斷である。僕は藝者な

どをしてゐるひとに、いかに純粹

な好もしい女が多いかといふこと

をよく知つてゐる。なにも分りも

しないくせに、氣位がたかくて、

ヒステリィで、うはべばかり慎ま

しやかな、それでゐて、財産や名譽

としか結婚しやうとしない、良家

の娘さんなどとは比べものになら

ないほどのいい人間が、藝者のな

かには随分ゐるやうである。僕は

冷笑するどころではない、さうい

ふいい藝者を賛美するものである

僕はひとつどつさりと金を儲けて

さういふひとを一人是非買ひとり

たいものだと切望してゐる。

 僕は、君の戀人がさういふいい

ひとであつたならば、君も僕みた

いな人間をからかふ氣にもならな

いで幸な日をおくることができる

だらうに――と言つてそれを希望

したのである。それを君がどうと

りちがへたものか、へんにむづか

しいことを並べて藝者論を披瀝し

たのは笑止である。

 君は僕に顔をあらつて出なほせ

といふが、僕はそんなめんだうな

ことはいやである。わざわざそん

なことまでして出るところは他に

ある。

 君のところへなぞは、昨日の顔

のままで十分である。又君はこの

一文を僕の三笑四笑だと思つては

困る。君のためにそんなに多くの

笑ひを放散して耐るものではない

一笑再笑だけで十分である。いや、

いまとなつてはそれさへもめんだ

うである。 (十五年四月廿五日)


(越後タイムス 大正十五年五月三十日 
                  第七百五十五號 六面より)


#コラム #大正時代 #越後タイムス #芸者




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