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た び 路 ――へんな原稿(三)――

――へんな原稿――第三稿――

    3

 ――柏崎へゐらつしやるのなら

七月になさい。七月の柏崎の海の

いろはとてもいい――。

 或るひとは泪をただ江て、その

ひとのふる鄕の海のいろの美しさ

を、なつかしさうに思ひうかべな

がら、わたしにいくどもさう言つ

てくれた。

 わたしの好きな二三の友だちの

ふる鄕はみな柏崎である。柏崎と

いふところは、わたしが越後タイ

ムスを知るやうになつてから、い

くだびも行つてみたいと思つてゐ

た街だし、どことなくなつかしい

氣がしていまでは自分のふる鄕で

でもあるやうな愛執を覺江てゐる

 或る日瀨川潤に―いつしょに柏

崎へゆかないか―ときくと、―行

つてもいい―といふことであつた

ふる鄕ほどなつかしい街でも、柏

崎はわたしにとつてはじめてのと

ころである。葉月さんは大へんわ

たしに好意をもつてくださつて、

二三年ほどまへから、いちど來い

と言つて、おりあるごとにさそつ

ていただいたが、いつもその好意

をありがたく思ひ乍ら、そむいて

ばかりゐた。それに葉月さんは、

わたしからみると十年も先人だし

いちどもお會ひしたこともないの

で、ただひとりでゆくのはへんに

心ぼそく思はれた。瀨川潤がいつ

しょに行つてくれれば、なににつ

けてもいい路づれだし、それに彼

もわたしにおとらない饒舌家なの

で、旅の徒然の慰さめにもなる―

わたしはさう思つて彼の言葉をう

れしくきいた。

 旅の日をきめてからといふもの

は、私の氣分もいくらかまぎれて

瀨川やアンリ・サマンの家へゆく

たびに、その旅の話をいろいろと

したものだ。

 ―柏崎へ行つたら、僕が昔、技

と技とをとびはねて友だちと遊ん

だ招魂社の松林が、今もまだある

かみてきてくれ給へ。それから僕

が禁則をやぶつて忍びこんで、か

たつぱしから大きな石塔を倒した

招魂社の戰死者の石碑が、今でも

僕が倒したときのままに倒れてゐ

るかどうかみてきてくれ給へ。そ

れから僕が自轉車にのつてつきあ

たつたことのある、路ばたの松の

大木があるかどうかみてきてくれ

給へ―とアンリ・サマンはその往

時の勇敢なる生活と、きはみなき

自由の天地を濶歩した頃の、彼自

らの幻影を思ひうかべてゐるので

あらう、美しくつぶらな眼に追憶

の泪をひからせ乍ら、さういふこ

とまでわたしにことづけをした。

 こうしてわたしは、柏崎をふる

さとにもつ友だちから、その街の

美しいところをいろいろときかさ

れたのである。

 旅だちの日のすこしまへであつ

た。いつしょに行く筈の瀨川潤か

ら、行けないかも知れないといふ

知らせをよこした。そのときわた

しは大へん淋しく思つたが―彼は

いまなにかいいものを書けさうな

のだな―とすぐにさう思ひなほし

た。彼はわたしとちがつて小說家

である。文學的作品をもつて米盬

に代へやうとする彼は、日夜彼自

らの藝術の殿堂に深くとぢこもつ

て、藝術家の喜びと、創造の苦惱

とに、その全生活をささげてゐる

のである。その彼の貴い仕事のま

へにわたしの心細さなどがなんで

あらう。

 ひとり旅だ―わたしはさうきめ

てゐた。

 ところが、旅だちの晩、停車塲

へゆくと、ひょつこりと瀨川潤が

やつてきたのである。

 どうしたのだ―ときくと、ぼく

も行くことにした―と言ふのだ。

いよいよそのときに追ひつめられ

てみなければ行動のはつきりしな

いのは、およそ藝術家の特色であ

る。わが瀨川潤もまたその著しき

ひとりである。わたしはさういふ

彼を、おかしく、しかしうれしく

思つた。わざわざ送つてくれたア

ンリ・サマンと別れの言葉をまじ

へて、わたしだちは、煽風機のむ

しあつい風をさけるやうに車室の

まんなかにからだをうづめた。そ

してわたしだちはいつものやうに

洪水ほどの饒舌にふけつたのであ

る。

 瀨川潤―きみはあの晩、僕がい

つものやうに愉快に君の饒舌の伴

奏をしてゐたと思つてゐたのであ

らうか。ひとの心持を感じること

に於て異常な銳さを持つ君が、あ

の晩の僕の顔いろをへんに思はず

にゐたわけがない。僕はだれにも

言ふことのできない。或ることの

ために、あの四五日まへから、夜

も眠れないでくるしんでゐたのだ

(五月はじめの樹木の靑葉がかほ

る頃から、六月いつぱいにかけて

僕はいつもはげしい憂鬱にとざさ

れて、喘ぎ、あ江ぎ息ぐるしい日

を暮らすのがならはしである。僕

の憂鬱はいつの日だつて殆んどぬ

ぐはれることはないのだが、こと

にあの若葉となが雨の頃は、僕に

とつていちばんあぶない季節的憂

鬱にくるしむときである。)

(越後タイムス 大正十四年八月廿三日 
       第七百十六號 三面より)


#柏崎 #越後タイムス #中村葉月 #招魂社 #大正時代 #憂鬱




      ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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