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燈 臺 船 (二)

  二、虹

 ひとしきり降り注いだ雨がとほ

りすぎたあと、私だちは都會の街

の空にかゝる虹をみる。夕暮の山

峡のうへに美しき虹をみる。憂鬱

な雨のあと、爽やかな雨のあと―

―いづれにしても私だちはあの不

思議な虹の美しさにうつとりとみ

とれることを知らなければ、まこ

との雨の美しさはわからない。

 いゝ映畫の美しさはこの虹をみ

る美しさである。いゝ映畫の味ひ

はこの虹にみとれる感じである。

諸君は夜の活動寫眞館で、この虹

のにほひをかいだことはないか。

螢のにほひをかいで諸君の夢の街

を彷徨したことはないか。諸君が

諸君の戀びととならんでこの虹の

にほひをむさぼるとき、諸君は美

しき戀びとの唇にかみつきたいほ

どの昂奮を覺江たことはないか。

諸君のうちに若しさういふひとが

あるならば、そのひとこそ、カトレ

ンの「嘆きのピエロ」を生涯かはら

ずに眼のまへにうかべることので

きるひとであらう。


 ふるさとの吹雪の夜にまぎれて

愛戀の燈火とうくわの照らす仄かな路をひ

たすらに走つた、かぼそくも美し

い戀びとだちは、やがてはこの世

のならはしにいましめられて、今

はたつきのために旅役者の群れの

なかに淋しい日を暮らしてゐる。

若い彼らの遠い昔の甘美な夢―過

ぎ去りし日のなつかしい思ひ出に

泪ぐむところから、この素敵な物

語ははじまるのだ。

 ふるさとのカスチレの町の冬の

夜、寺の鐘は十時をひゞかせてゐ

る。涯しない愛戀のゆめによひし

れた二人の戀びとたちにとつてそ

の夜の鐘はどんなになつかしく、

また美しくきこ江たことか――然

しそのことごとくはひとひらの淡

いゆめであつた。かたときの詮な

い幻であつた。今はそのかみの寺

の鐘に心をときめかすかはりに、

彼らは幾山河を越江てさまよひゆ

く旅の馬車の寢床のうへで、ひた

すらにうつゝの哀しさをかこつ身

のうへである。西班牙スペインの古風な街

トレードーの祭の夜のことである

哀しきピエロ、リケットと彼の戀

びとラルダとは、いとしい幼兒おさなご

病氣をなほすために醫者をむかへ

ることもかなはないほどの貧しさ

である。彼らふたりは、たゞ愛兒

のかほをうちながめ、ながい溜息

をもらし乍ら、思ひはいたづらに

なつかしき昔の日にかへるばかり

であつた。リケットはこの一座の

道化役者として心にもない名聲を

得てゐた。彼は愛兒のみとりに疲

れ、やるせない思ひに沈み乍らも、

この街のものずきな人だちの一夜

の歡樂の俎上にのぼるために、奇

怪なる、おどけた粉飾をほどこす

のである。然し彼のわづらひはそ

れだけではなかつた。淫蕩なる仲

間の女優フロッシーはいやらしく

彼につきまとつた。彼の仲間のす

べてのものは、彼らの愛情こまや

かな生活を嫉妬した。それだけで

はない。彼の主人のバッファロー

は權威をふりかざして、彼の戀び

との愛をうばはうとした、舞臺に

立つたリケットの大亂舞のめまぐ

るしい塲面は、この哀れな物語の

最もすぐれた繪である。リケット

は愛兒の患ひに心をうばはれ、戀

びとの身におそひかゝる不安を感

じ乍らも、詮かたなく大亂舞を演

じてゐる。一方彼の留守をめがけ

て忍んできたバッファローは、美

しきラルダを力づくで姦淫しやう

とあせる。この二つの塲面を風車

のやうに交錯させる演出は、映畫

としては平凡なる手法であらうが

この映畫ほどわれわれの心をうつ

塲面をつくりだすことは容易では

ない。

 われわれは眞に美しき間髪をい

れざる瞬間を感じる。こういふす

ぐれた塲面はこれだけではない。

リケットが心勞の餘り亂舞のさな

かに昏倒する塲面。とげられない

慾情のむなしさに焦せるバッファ

ローが、復讐心に燃江てラルダの

舞踏のさなかに怒れる獅子の檻の

扉をあけ放ち、むごくもラルダの

眞珠のやうなはだへ食ひやぶら

せる塲面。虐げられたるものに同

情するバッファローの妻ヴァイオ

レッタがその夫の残酷なるたくら

みを知り、妖怪のごとき夫をなじ

る塲面。ラルダが傷ついて舞臺か

らかつぎだされる瞬間、扉の外に

狂人のごとくもだ江哀しみ乍らも

愛人の安否を待ちかまへるリケッ

トの表情。寢床に横たへられた妻

のみとりもかなはず再び舞臺にで

て喜劇「砂漠の恐怖」を演じなけれ

ばならないリケットの焦燥。彼の

留守に、ラルダの美貌に日ごろか

ら思ひあこがれてゐる仲間の男ス

エッティが、失心してゐるラルダ

の接吻を盗む刹那、リケットが入

つてきて彼を突きとばす塲面。そ

して、ラルダを死に瀕せしめたバ

ッファローの惡だくみが、彼の妻

ヴァイオレッタの口から人々のま

へにあばかれたとき、今までリケ

ットだちをいぢめた仲間の人びと

の心は、たちまちひるがへつてか

のかんなん多き美しき愛人だちの

上に同情の思ひを降り注ぎ、二人

を惡魔のいましめから解いてやる

ためにこぞつて彼らをかばひ、深

夜二人をいづこへともなく逃がし

てやる最後の塲面まで、私だちは

たゞ魂をうばはれてこの美しき、

残酷なる映畫に、醉はされるので

ある。

この映畫をみてなほ、二十八歳の

天才カトレンの才能に三嘆しない

ひとがありとすれば、或はこの映

畫のなみならぬ美しさに醉ひしれ

ることを知らないひとがありとす

れば、私は彼らの無感覺を嗤ひた

いものだ。そんなひとがこの人生

に生きてゐることを、私は信じた

くないものである。(未完)


(越後タイムス 大正十四年五月丗一日 
       第七百四號 六面より)


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         ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

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