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樹 上 會 議

 每朝出勤の途上、私は或る古池の邊

りを通る。その池の周圍には、楓と櫻

の古木が、水面に傾いて枝をのばし繁

つてゐるので、葉櫻の頃から、初夏へ

かけての、木の葉の綠の美しさは類な

い。

 頭を使ひ過ぎた朝など、私は暫らく

樹下に彳んで、新鮮な朝陽をうけて、

馬追の翅のやうに透き徹る、楓の葉の

群を見上げてゐると、忽ち身心が淨化

され、機能が活發になるのを覺えるの

である。

 五月初め頃の或る朝であつた。いつ

ものやうにそこを通りかゝると、楓の

三叉になつた枝の上に、酒屋の御用聞

らしい一人の青年が登つてゐて、文庫

本みないなものを讀んでゐた。

 私はそれを見て「これはうまいこと

をやつてゐるな。これから暑くなれば

これに限る。これこそほんたうの綠蔭

讀書だ。」と思ひ乍ら、通り過ぎようと

すると、そこへ又一人、自轉車で、同

じ年頃の御用聞がやつて來て、樹上の

男に聲をかけると、もう、スルスルと

楓を登つて、二人は樹上で向き合つて

何か話をし出したのである。

 その次ぎの日からは、雨の降る日を

除いて、殆んど每日のやうに、私は彼

等の姿を楓の樹上に見かけた。

 私は子供の頃から木登りが好きで、

現に、最初の日に御用聞が木の上で本

を讀んでゐるのを見た時も、自分もあ

れをやつてみようと思つた程だし、そ

れに、あの二人の御用聞達に、每日の

やうに樹上で一體何を話合つてゐるの

だらうといふことには、特に興味がひ

かれたので、或る日曜日の朝、いつも

彼等が陣取る木の隣の楓へ登つて、私

は「キューリー婦人傳」を讀んでゐた。

すると間もなく、彼等もやつて來て、

チラと私の方を見たが、別に躊躇する

樣子もなく、例の定木に登つた。

 私は彼等の話を盗み聞きするのが、

主の目的だつたから、本を讀むふりを

し乍ら注意深く耳を欹てたが、たかが、

酒屋の御用聞程度の人間であるから、

さう大して聞き甲斐のある話題などが

ある筈はない、とぎれとぎれに、聞き

とれた彼等の話といふのを繼ぎ合せる

と「問屋が品不足を理由にして品物を

希望數量の半分も卸して呉れない。」

「御得意からはどんどん注文があるの

に、店の品物がないから、見す見す商

賣が出來ない。」「公定値段のたるもの

は抱合賣をやるより仕方がない。」「吾

われだつて、いつ迄も御用聞をやつて

ゐるわけではない。いい機會を見て、

店を持つのが目的で苦勞をしてゐるの

だが、今のやうに、金の値打が下つて、

物の制限が嚴重になつて、問屋から品

物が來なくなつたのでは、新規に開業

などはおろか、今迄營業してゐる店も

やつてゆけなくなる。」と、大體こんな

風な内容であつた。

     ×

 軈て、彼等が歸つて行つた後、私は

獨り樹上で考へた。

 これは一寸聞くと何んでもないやう

な話であるが、酒屋の小僧の愚痴とし

て、決して聞き流しにすべきことでは

ない。今日、日本の生きてゐる社会の

直面してゐる。大きな重要問題の一つ

であつて、これをどう解決するかとい

ふことが、爲政者の惱みの種である。

 戰爭に勝つことと、國民生活の安定

との二つは、今の日本にとつて、先決

必須のことであつて、その輕重先後を

論ずる余地はないのであるが、又一面、

この二つほど矛盾相剋するものはない

のである。

 既に全國民には、戰爭に勝つために、

あらゆる困苦欠乏に耐へる覺悟は出來

てゐる。いざとなれば至尊の御爲、

皇國の爲、一身一族を犠牲にする心構

は、國民一人殘らずが持つてゐるので

ある。然し、それは、いざとなれば―

である。それ迄はいかに戰爭に勝つ爲

といふ名目であつても、架空的權力を

以て、濫りの國民生活を脅かすが如き

政策には、屈伏出來ないのである。

 例へば平沼首相の唱導された「總親

和」といふことは官僚以外の國民だけ

を目標にしたものではないと思ふ。然

るに、官僚の一部には、恰も特權階級

ででもあるかの如く、國民を眼下に見

下し、自己の所有物を分配するかの如

き觀念を以て、物資を配給する態度を

取るものが、往々にしてあるがために、

中には非常に懇切叮寧な人格者があつ

ても、玉石混淆的に官僚獨善の謗をう

けるのである。

 そして、一方に於ては、生活を撹亂

された國民が、死線を彷徨して悲歎の

涙に暮れるばかりである。

 かう云へば官僚は「何も好んで、吾

われが國民を苦しめる譯ではない。戰

爭第一主義だ。諦めよ。」と云ふに決つ

てゐる。問題は玆にある。それが分り

きつてゐる。であるからこそ、國民は

死ぬ苦しみまで耐へ忍んでゐるのであ

る。

 官僚諸氏よー諸氏も吾われ國民も同

じく、 陛下の赤子である。斯る國家

存亡の重大事に當つては、一層官民總

親和の實を擧げ、且つ、指導的立場に

ある諸氏は、平時よりより以上に、國

民との協調に努力すべきではないか。

 具體的なことを書くのは避けるが、

結局、統制のための統制、不適切なる

統制、不公正なる統制、机上觀念的統

制の强行が、生きてゐる社會全般に浸

透して、前章で述べた酒屋の小僧の樹

上會議の議題に上るやうな結果を招來

するのである。

(雑誌「科學知識」1939年 
  昭和十四年 八月號より)

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昭和館図書室、国立国会図書館、所蔵


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