見出し画像

へんな原稿(一)

    1

 武者小路實篤氏の昔の作品に―

へんな原稿―といふへんな小說が

ある。私の好きな佐藤春夫氏がそ

れを大へん賞賛してゐたことがあ

る。小說だと思つて讀めば、随分

と退屈なものだが、武者小路氏の

精神に興味を持てるひと、或は武

者小路氏のへんさがよく分るひと

には、あの作品のへんなところ―

つまりあの作家の持ち味がいかに

も面白く思へるので大へん珍重な

ものである。私も―へんな原稿―

をへんに好きである。春夫氏が賞

めたからだと思つてもらふと困る

が、まあそんなことなどはどうで

もいゝ。まだ讀まないひと―と言

つては失敬だが、武者小路氏を大

へんに嫌ひなひとか、或は大へん

に好きなひとかなら―どつちつか

ずの書物ひやかしのひとはいけな

い。―きつと、これは面白いもの

だと思ふにちがひないから、ぜひ

一讀をすすめたいものである。六

十頁ほどのものだから、だまされ

たと思つて讀んでみ給へ。

 武者小路氏は、春夫氏の言葉の

とほり、とにかく新時代の精神を

多分に持つてゐるひとである。そ

の新時代さも僕などの大へん好き

な新時代さである。いま日本の文

學界で噂のたかい、新感覺派の諸

君よりも、はるかに新らしい精神

の噴泉である。ポオル・モオラン氏

は大へん好い作家だが、そして新

感覺派の父であると言はれてゐる

が、それだからといつて、あのぶ

ざまで、がさつな、日本の新感覺派

の諸君の書くものが、新感覺派で

あるがゆ江に、なんでもいいと言

へるだらうか。だいいち、新感覺

派などといふ言葉がへんではない

か。また新感覺派などと、ことさ

らに看板をかかげて小說を書くの

はなさけない話ではないか。感覺

のない人間がゐる筈がないと同じ

やうに感覺のない小說といふもの

があるわけがないではないか。こ

とさらに新といふ字をつけてみた

ところで、諸君のかくものは、佐

藤春夫氏よりも、室生犀星氏より

も、はるかに古ぼけた感觸しかな

いではないか。感覺などといふ、

小さな窓ばかりをのぞいてゐない

で、どうせ新らしがりたいならば

せめて武者小路氏ほどの新らしい

精神を旗印にしたらどうか。革袋

のいろばかり新らしくしたつて、

なかにもる酒が古ければなんにも

ならない話ではないか。

 ことに僕が言ひたいのは新詩壇

の詩人諸君の詩に就いてである。

いつたい、新詩人諸君は、諸君の

詩をもつて詩のつもりでゐるので

あらうか。ひとりよがりの、へん

な夜光石のやうな言葉ばかりつみ

かさねて、それで、自分はいちば

んゑらい詩人だ、だれよりも新ら

しい詩風をつくりだしたのは自分

だと言はぬばかりである。君らの

書く詩ほど詩そのものから遠いも

のはない。詩風などといふ雅致あ

る言葉をかぶせるのは惜しいもの

である。君らの書くものは、生硬

な、恐らくは君ら自らにもよく分

つてゐさうでもない、言葉の積木

細工に過ぎないではないか。拙劣

な飜譯詩よりももつとごつごつし

て、情調などはあとかたもない。

みみずの歩るいたあとよりももつ

ときたない。もとより朝に夕に愛

誦に價するやうなものはひとつだ

にない。そんな詩人がいま日本の

新詩壇といふ、たらひのなかで、

家鴨のやうにがやがやとはばたい

てゐる。新感覺派諸君にしろ、新

詩人諸君にしろ、さう諸君のやう

にさわがないでも、「葡萄畑の葡萄

作り」といふ本の著者のジュウル・

ルナアル氏といふひとなどの方が

諸君よりはずつと新らしいのだ。

諸君のやうに、固くるしい、むづ

かしい、甲蟲かぶとむしのやうな感覺的文字

をつみかさねたりしなくとも、ル

ナアル氏の、

    蛇

 あんまり長すぎる。(岸田國士士

 譯)

 この一行小說の方が、どれほど

新らしい藝術か知れない。――

 ―へんな原稿―のことを書いて

ゐた筈だのに、いつのまにかへん

なところへ彷徨してしまつた。そ

れに僕は、はじめから武者小路氏

の―へんな原稿―のことばかりを

書くつもりではなかつたのである

僕がこれから氣の向いたときに書

いてゆくつもりの雜錄の題に―へ

んな原稿―といふ文字をつかふに

就いて、ちょつとその由來を書い

ておきたかつただけのことである

柏崎には大へん頭のいい批評家が

居るといふことで、僕もこのあひ

だはじめてちょつと柏崎へ行つて

なるほどと思ひあたつたこともあ

るので、ひとの小說の題を盗んだ

などと言はれると困るから、僕が

武者小路實篤氏をどんなに好きか

といふことを、あらかじめことは

つておいて、恐ろしい毒矢や批評

家的毛虫などが飛んでこないやう

にしたいのだ。

 大へん言ひわけが長くなつたや

うであるが、ついでにもうすこし

書かしてもらひたい。ほかでもな

いが、僕のこの―へんな原稿―は

新時代でも、新感覺でも、モオラ

ンでも、ルナアルでも、そのなに

ものでもないので、全く文字どほ

りの―へんな原稿―なのである。

あひかはらず僕の黄昏の痴愚なの

である。だから僕はほんたうのこ

とを言ふと、これをだれにも讀ん

でもらひたくないのである。こと

に僕の最も親愛なる友達に讀んで

もらひたくないのである。僕の親

しい友達の野瀨市郎君も、曾根英

三郎君も、アンリ・サマン君もみな

武者小路實篤氏を大へん嫌ひださ

うである。だから、もとよりいちば

ん武者小路くさい―へんな原稿―

といふ作品などは、みるのも嫌な

ことであらうと、僕は思ひついた

のだ。そこで「これはいいことを思

ひついた」と僕は、この文章を讀

んでもらひたくないばかりにわざ

と―へんな原稿―といふ題をつけ

たわけである。冒頭にこの彼らの

なにものよりも嫌ひな、武者小路

線香をくすべておけば、きつとこ

れを讀むやうなことはあるまい―

と、親友を蚊にたとへたやうで大

へん失敬であるが、べつにわるげ

があるわけではない、全くこれを

讀んでもらひたくないばかりにこ

んな苦しい思ひをするのだから、

諸君もそこを推察して讀まないや

うにして呉れ給へ。なにもそんな

ことまでして、くだらないことを

書かなくともいいではないか―な

るほどそのとほりなのだ。僕だつ

てこんなものを書いてゐるひまが

あつたら、買つたままで一頁でも

讀んでゐない本がだいぶあるし、

それを讀んだり、散歩にでもでた

方がよほどいいのだけれど、僕は

いまへんに寂しいのだ。家にゐる

と泪を流さない日はない。友だち

と會つたり、つとめさきではふし

ぎなほど快活だのに、ひとりにな

ると泣かずにはゐられないほど淋

しく憂鬱なのである。そんなとき

にはこのあひだ春夫氏に書いても

らつた色紙をとりだしてみること

がある。

 ―ふるさとの柑子の山を歩めど
 も癒江ぬ歎きを誰がたまひけむ

 これぢやあまるで僕の憂愁と同

じことではないか。慰さめられは

するけれど、頬を傳ふ泪はとどむ

べくもない。そして今の僕の淋し

さは昔のい江ぬ歎きだけではない

―僕は月見草になりたい。月見

草にならなければ、僕はあのひと

を思ふとたゞこれだけのひとこと

を、あのひとにつたへるすべもな

い。なぜなら、僕の思ふひとは月ぐ

さだからである。僕は月ぐさを愛

慕してそれゆ江に月ぐさになりた

い。僕の希ひはただこればかりで

ある。げにいやしかるわれながら、

うれいはきよしきみゆ江に―と、

佐藤春夫の殉情詩集にさうあるで

はないか。僕は心持は全くそのう

たとそつくりである。日ごとに思

ひはつのるばかりだのに、なかな

か僕は月ぐさになれさうではない

僕の思ふ月ぐさは僕が心のうちで

ひそかに希つてゐる言葉を僕にめ

ぐんでくれたことはいちどもない

いつもだまつて眼にいつぱい泪を

ためて天空のあの高いところの月

をあこがれてゐる。それがまた僕

には大へん清らかで氣だかく思へ

るのだ。

 僕はいまとても寂しい。そして

とてもうれしいのだ。寂しくて、

うれしくて、僕は泣くよりほかの

ことを知らない。僕はひとりきり

になることが恐ろしく耐らない。

あまりに感情がたかぶるし、そし

てあまりに茫然として泣くからで

ある。

 こういふか細い吐息と哀愁の生

活のかたときに書いたものを、こ

の―へんな原稿―のなかへ拾ひあ

つめてゆきたいと思ふのだ。

 ――私は今度戰爭にゆく。戰爭
 にゆきたくてゆくのではないこ
 とは誰も知つてゐる。何のため
 にゆくかは誰も知らない。或國
 の内亂(?)を靜めにゆくのか、
 或る思想の傳染を防止しにゆく
 のか、それは知らない。ともか
 くもゆくことになつた。私は生
 きて歸るつもりでゐる。しかし
 死ぬかもしれない。――

 これが武者小路氏の小說―へん

な原稿―の冒頭の一節である。

 諸君―まあ待ち給へ。なにもさ

うあはてて逃げだすほどのことは

ないではないか。

(越後タイムス 大正十四年八月九日 
      第七百十四號 六面より)


#武者小路実篤 #へんな原稿 #佐藤春夫 #新感覚派 #新詩壇  
#ジュールルナール #岸田國士 #ポールモラン #憂鬱




       ソフィアセンター 柏崎市立図書館 所蔵

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?