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釣 魚 漫 筆

                             本 社 菊 池 與 志 夫

 趣味の極致は釣魚にあるさうで、種いろ八釜

しく凝り固ると随分贅澤なものらしい。

 藤波與兵衛氏のたなごに關する一文に據ると、徳

川末期の江戶情緒豊かな頃のお大名が、深川の

木場あたりの棧取り(材木を筏に組んで水に入

れてあるもの)の上に、朱の毛氈を敷き緞子の

布團を重ね、風よけに金屏風を圍らして、贅を

盡した魚籠を片方に、又片方には銀の手爐を置

き手を焙り乍ら、鱮釣に耽つたとのことだが、

こうなるともう趣味ではなく惡るい意味でのお

道樂である。

 僕は鯊竿一本、鮒竿一本の貧釣師だが、釣魚

を樂しむ心は道具に贅をつくした釣大名に劣ら

ず豊富なつもりだ。他のことは知らぬが、釣魚

ぐらひいいものはないと思つてゐる。どこがそ

んなにいいか―先づ第一に、他の勝負事のやう

に露骨な闘爭心を伴はないことである。相手が

物言はぬ魚族だから、釣れないからと云つて文

句の云ひやうもないし、勝つた負けたのあとく

されがないのがいい氣持だ。まあ强ひて怨むの

はその日のお天氣模様位のものだ。いづれも相

手は無心だから、どうしてみやうもない。誠に

罪のない趣味で、又心ゆくばかり孤獨を樂しむ

境地も得難いものだ。只、罪がないと云つたつ

て、それは人間の方から云ふことで、釣られる

魚の身になれば、一生の浮沈に關する一大事で

あらう。これは戯談ではなく、その殺生な點に

は一掬の涙をはらふべきである。然し、凡そ魚

族は人間に食べられる爲に生存してゐるのだと

との理屈もあるさうだから徒らに情にもろいの

も考へものだ。

 次ぎに釣魚は健康上有益である。又、前述の

お大名氣分でなく、眞實に釣魚の精神的方面を

享樂する丈けで滿足すれば、こんな費用の安い

ものは他にあるまい。ことに僕が聲を大きくし

て賞讃したいのは、野邊で食べる辯當飯の美味

さである。その他數へ上げれば、まだまだ幾ら

もあらうが、まあ目星しい功徳はこんなもので

ある。

 僕は釣師の末席を汚して日尚ほ淺いし、釣魚

をするなどと大きな顔の出來るやうな經験もな

いが、僕の貧弱なプログラムは、春の鮒釣、夏

のめごち、初秋から冬へかけての鯊釣、あなご

の夜釣などで、これから段だんと、六づかしい

釣魚を習得して、季節季節の釣魚は一通り心得

て置きたいと念願してゐる。

 今迄の經験によると、釣魚に出て一匹も針に

かからぬ日は随分あつたが、大釣りで獲物を持

て餘したなどといふ覺えは殘念乍ら一度もな

い。比較的に數が出て、むらのない釣りは、八

月頃鶴見沖のめごち―ネヅツボ又はおいらんと

も云ふが、頭に角がある魚―釣りと、どういふ

譯か近年駄目になつたさうだが、九月から十二

月へかけての品川沖のあなごの夜釣りである。

夜釣りは健康上餘り推奨出來ぬが終電車いつぱ

いの時間を惜んで十二時過ぎまでも釣つてゐる

と、もう引き揚げねばといふぎりぎりの時間に

なつても餘り喰ひが立つてゐるので、ぇぇ面倒

だ―たとひ歩るいて歸つても釣れる丈け釣つて

行きたいといふ氣になる位面白いものである。

これに引きかへ、獲物の點では春の鮒釣位惨め

で腹立たしいものはない。


 三月なかば過ぎ、ひと雨ごとに草の芽は靑あ

をとのび、春の陽ざしは白みをあびて、さんさ

んとふりこぼれる。裏山を散歩して黑土の上に

まつ赤な落椿を拾ふのが樂しいがふとみ上げる

と、櫻の枝には蕾がふつくらと旬日後の滿開を

約束してゐる。――さういふ頃になると僕は鮒

釣りの樂しさを思ひ出して、胸がわくわくして

くる程である。さうして同じ思ひの釣り友達を

誘ひ合して、子供の頃遠足にゆく前夜のやうに

心もはりきつて、鮒竿をかついで行く足どりも

踊るのである。これほどの思ひをこめて、しか

も僕の鮒戀ひは、いつも冷たい、むざんなひぢ

鐵砲がおきまりである。僕は、春の河水であた

ためられた鮒の肌ざはりを心ゆくばかり掌に握

りしめてみたい希願はみたされなくともその代

りに鮒の釣り場をめぐる春の風物を存分に賞味

する丈けでも十分な慰めだと思つて諦らめてゐ

る。

 早朝、田舎停車場の改札口を出てものの一町

も歩くともう麥畑と菜の花ざかり、桃の花も遠

く霞んで、藪蔭の一軒家からは長𢡿な牛の鳴き

聲がきこえてくる。これに陽炎がゆらゆらと立

ちのぼつて、中天から雲雀の囀が落ちて來れ

ば、おあつらへ向きの田舎の春景色だ。こふい

ふ風景にかこまれた畔道を一里も歩るいて、朽

ちかかつた水車小屋などのある小川の土手に腰

を下ろして、釣り仕度ももどかしく竿を水面に

のばすと、はりつめた心もホッと一息つく心持

である。この氣持が千金で、釣魚の身上はここ

にあると思ふ。竿をおろしたらあとは只無念無

想、誰れの句かは知らぬが「玉うきのゆらぐ氣

持や春の釣」――この境地がすべてを語りつく

してゐる。

 だが僕は鮒釣りに行つて魚籠に鮒を入れてか

へつたためしがない。去年だつたか、友人と埼

玉縣の朝霞といふところへ行き、終日糸をたれ

てゐたが、一匹も釣れぬどころか浮木がピクと

もしない。やがて日もとつぷりも暮れたので澁

しぶ腰をあげ、暗い田舎道を歸途につくと、森

蔭に灯をともした一軒の居酒屋がある。それを

みるとつい耐らなくなつて、桝からこぼれる冷

酒をきゆうつとひつかけて、程よい醉心地で又

歩るき出すと、野末に煙らつてほつかりと春の

月がかかつてゐる。「滄浪と街を歩めば大ぞら

の闇のそこひに春の月出づ」ふと若山牧水のこ

の歌が口づさまれて、思はぬ詩情にひたつたこ

とがあつたが、僕の鮒釣りはこういふ風に鮒に

はめぐまれぬが、その季節の何んとも云へない

なつかしい氣分を珍重すれば心足りるのであ

る。

 秋の彼岸頃から鯊釣りを始めるが、この釣魚

も亦樂しいものだ。僕はへんに鯊といふ字が好

きで、この文字をみただけで、あの眼が上につ

いている、へうきん者の魚族を思ひ浮べるので

ある。鯊は喰しんぼうで、又思ひも寄らぬ淺い

ところに居る。さうして居りさへすれば他愛も

なく幾らでも釣れる。僕は彼岸前後から、川崎

大師先きの汐濱といふところへ日曜日毎に出掛

けた。この場所の指南者は能率課の高橋勝太郎

君であるが、同君の釣狂は定評があつて、雨降

りに傘をさして釣りに出掛けるなどは珍らしい

ことではなく、暴風雨でどうしても釣りを斷念

せねばならぬ日には、椽先きの庭下駄を鈎に引

掛けて、僅かに釣慾の憂さ晴らしをやるといふ

程である。

 十一月から十二月へかけて、日毎に寒さが身

に泌みて、木枯がピユウッぴゆうつと吹く頃に

なると、今迄淺い所に居た鯊はそろそろ沖の深

んどへ落ちる。そこで僕らは船宿からモーター

船に乗つて、羽田沖とか江戸前とか浦安とか、

思ひ思ひの場所を目指して沖釣りに出掛けるの

である。深んどの釣りは岸釣りと違つて形も大

きいし、十尋もある底から上げてくる味ひが又

格別である。去年の十二月初旬、僕ら釣り仲間

が七八人で品川の船宿から、江戶前の三枚洲と

いふ鯊の釣り場を覗つて出掛けた。夜來の雨が

名殘りなく上つて、お臺場沖からいちめんに雪

をかむつた富士山がくつきりと眺められた程の

冬晴れだつた。だが、午前九時過ぎ海苔しびの

側を通りぬける頃から南風が吹きつのつて、波

浪はしびにぶつかり、僕らの船はくしやくしや

にもまれた。

 このまま引揚げるのも口惜しく、どうにか釣

魚にならぬかと、調度課の田中鐵藏氏が、しき

りに船頭にかけ合はれたが、この南風ではどう

にも仕方がないといふので、遂に途中で引返し

た。日曜祭日ならでは釣魚に行けぬ者にとつて

これ程の憂き目はない。よくよくの不運と皆は

諦らめたが、その翌日、あの元気な鐵の如き田

中鐵藏氏が病氣缺勤ときいてびつくりした。き

けば發熱四十度で肺炎の虞れがある、昨日船か

ら上ると直ぐ歸宅せられたが、同時に惡寒がし

て臥床された由である。その後一週間程休まれ

て全快せられたが、氏の話によると、釣魚に出

た日の朝既に身體の調子が變だつたさうで、船

に乗つてゐる頃には相當發熱してゐたらしい。

氏は日常强健をほこつて居られた位だつたか

ら、その點案外無頓着だつたのである。若しそ

の日南風が吹かずに、面白い程鯊が釣れたとし

たら、釣魚好きの氏のことだから、少し位氣分

がわるくても午後まで釣り續けてゐられたに違

ひない。さうすれば病勢は容赦なく惡化して、

完全に肺炎に冒されただらう。その結果、或は

氏の生命に關する不幸事を起さなかつたとは保

證出來ない。誠におそるべき運命的分岐點であ

つた。謂はば當日の東京灣の南風は田中鐵藏氏

の生命の親であつたわけである。

 鯊釣りの挿話としては餘りに感動的だが、僕

の印象に深く刻まれた事實として、僕の釣魚漫

筆に忘れてはならないのである。

 (王友 第八號 
  昭和九年六月一日発行 より)


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#旧王子製紙 #随筆






           紙の博物館 図書室 所蔵

      ※サムネイル写真は釣り船に乗る一銭亭(左側)

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