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記紀以前の世界 ~神功皇后&武内宿禰~

日本の古代史を考えるうえで、古文書や遺跡の発掘などの証拠に基づいて、考察を深めていくことは必須ですが、地政学的な観点を見落とすわけにはいきません。つまり、畿内のヤマト王権九州と中国大陸&朝鮮半島位置関係について、それらがどのような意味を持つのかを考える必要があるということです。

さて、日本古代史における武内宿禰という人物の重要性については、既に記事にした通りです。

彼は、乙巳の変で討たれた蘇我氏をはじめとする、複数の古代豪族の祖ともされています。神功皇后と行動を共にし、熊襲征伐三韓征伐などに参加したことでも有名です。

もちろん、謎めいたことの多い人物であり、そもそも実在を疑う人もいます。したがって、彼が本当にその名前であったかどうかといったことを含めて、断定することは非常に困難です。しかし、記紀に武内宿禰(建内宿禰)という名が記されている以上、そのキャラクターに該当する人物が存在していたと考えるべきでしょう。

この武内宿禰を地理的な観点でみてみると、日本海側で祀られている神社の大きさが目立ちます。以下は、ウィキペディアの「武内宿禰」の項目からの引用になります。

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そして、気比神宮がある福井県敦賀市や、宇倍神社のある鳥取県鳥取市は、ヤマト王権があったと考えられる纏向遺跡からみると、中国大陸に抜けるための重要な日本海航路に位置していることが分かります。

武内宿禰という人物は、ヤマト王権のなかでも日本海側(とくに山陰地方)との結びつきが強かったのだろうと考えられるのです。

また、ヤマト王権というのは、それ単体で巨大な豪族だったと考えるよりも、土器などの出土状況をみると、伊勢・東海を筆頭に北陸・山陰河内といった複数の地方豪族の連合体であったという見方があります。そう考えた時、武内宿禰は、そのなかで北陸・山陰系の豪族として、王権の一部を担っていたのではないかと考えられるわけです。

一方、神功皇后については、別名を「気長足姫(おきながたらしひめ)」といいます。その息長(おきなが)氏について、米原市のホームページには以下の通り、記載があります。

 息長氏は、近江国坂田郡(米原・長浜両市域)の南部地域、現在の米原市近江地域付近の天野川(息長川)流域に本拠地を置いていた古代豪族です。

つまり、神功皇后というのは、ヤマト王権にあって、琵琶湖に勢力圏をもつ勢力の代表者だったと言えるわけです。この琵琶湖の豪族だったという点、とても重要な意味があります。

現代では、どちらかという太平洋側の方が栄えていて、日本海側というのは寂れているというイメージかもしれません。しかし、古代日本における交易では、中国大陸とのやり取りが最も重要だったと考えられます。そして、何かを大量に運ぼうと思ったら、陸路よりも断然水路(海路)が有利です。したがって、ヤマト王権にとって、下図のような日本海側航路は、大変重要な意味を持つということになります。

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その日本海側航路を考える際、日本海の航路(武内宿禰)と日本海からヤマト王権に通じる琵琶湖の航路(神功皇后)が結びつくということは、日本海側航路の完成を意味するわけです。そういう意味で、この2人のタッグは、例えばもうひとつのヤマト王権への航路と考えられる瀬戸内海・河内勢力からすると、脅威だったかもしれません。

当然、ヤマト王権と中国大陸との関係でいえば、九州がその勢力圏外にあるということは厄介です。当時、青銅器や鉄器が大陸から九州に入ってきていたことを考えれば、ヤマト王権は九州を勢力圏下におさめる必要性に迫られていたと思われます。そこで九州征伐に動いたのが、神功皇后&武内宿禰というヤマト王権における日本海側航路勢力だったと考えられるわけです。それが神功皇后と武内宿禰の熊襲征伐(九州征伐)だったのではないでしょうか。

これにより、ヤマト王権の日本海側航路の勢力が九州を制圧しました・・・が、ここからさらに歴史は大きく動いたのではないかと考えます。その物語については、また次回以降でまとめてみたいと思います。

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